貴方も私も人じゃない179

ふ、と互いの唇が惜しげに離れていく。家康はすぐに鎮流から手を離した。
これ以上は触れられない。触れていたら、耐えられなくなってしまう。
そう言っているようで、鎮流は大人しく距離をとった。そこで、ふと思い付いたように家康の方を見た。
「…家康様、抱かれますか?子供」
「えっ?いいのか?」
「勿論。首がまだ座っていないので、そこを支えるように…」
「…うわぁ……ちっちゃいなぁ…」
家康は不意な鎮流の提案に驚きながらも、そわそわしながら赤子を受け取った。すっぽりと片腕の中に収まる子供に、家康は感嘆したような声をあげる。
鎮流はきらきらと顔を輝かせる家康を、楽しそうに見つめていた。



静かな日々だった。穏やかなようで、その実嵐の前のような不気味な静けさだった。
鎮流は布団に身体を横たえ、天井を見上げる。隣で赤子はすやすやと眠っている。
「……このまま終わらせてくれるかしら…」
鎮流はぽつり、そう呟いた。



そして呟きの通り。
静かには終わらせてくれなかった。




 最後の夜が来た。明朝には処刑される。
徳川方の気遣いなのか、その夜には鎮流の元から赤子が連れ出された。鎮流にとって悪いことではなかった。赤子とは十分時を過ごしたし、最期くらい、気兼ねなく一人で過ごしたくもあった。
その夜、鎮流は床には入らず、牢にある窓から空を見上げていた。三日月が煌々と照っている。どうやら天気はいいらしい。
「ーーー……詩人ならここで一つ詠んだりするのでしょうけれど」
生憎と鎮流にそういった趣味はない。特にすることもなく、鎮流はただ、静かに空を見上げていた。
しばらくそうしていたが、ふ、と鎮流は視線を窓から廊下へとやった。
身体の調子は悪くはなく、走るのは無理だが普通に動く分には問題はない。
故に鎮流は、正座したまま廊下に向き直った。
「このような夜に、何用でございましょう?」

ざわ、と闇がざわめく。が、すぐにそのざわめきは止み、がぎん、と牢屋の錠が壊される音がした。
「…」
鎮流は静かに立ち上がった。
それに向かい合うように、闇から黒い装束で身を隠した男数名が姿を見せた。
「…どこの手か、聞いてもよろしくて?」
鎮流はおどけたようにそう口にする。男たちはそれを無視し、同時に鎮流に襲いかった。

ー集団で来るのは別に難しくはないんですよ
合気道の師範が、一般向けの演武会で解説していた言葉が思い出された。懐かしい。このタイミングで思い出すとは思わなかった。
鎮流は3人を右にかわし、両手を前に構えた
。すぐさま体勢を戻し、斬りかかってきた男に向きなおる。
刀が降り下ろされるのに合わせて、右斜め前に踏み込む。刀を左にかわし、それと同時に相手が両手で握っていた刀の、その手の間を掴む。相手が驚いている内に手首を回し、相手を転ばさせ、刀を奪い取る。
「…」
本来ならばここで刀を相手の頭へ降り下ろすところで終わる。だがこれは合気道であって合気道ではない。
鎮流は奪い取った刀を構えると同時に振り上げ、転んで体勢が崩れている相手の首筋に刀を降り下ろした。
「がっ……!」
そのまま引き抜けば、血が勢いよく噴き出す。鎮流はそれには目もくれないまま、他の二人を振り返る。
二人は一瞬怯んだが、すぐに襲いかかってきた。恐らく同じ手は通用しない。
鎮流はふっ、と小さく笑った。
「…おいで……!」
鎮流は刀を投げ捨てる。
合気道は相手を攻撃することを主とする武道ではない。護身術の代名詞とよく上がるように、攻撃を流すことを主としているといっても過言ではない。
故に、鎮流の身に攻撃に有効な武術はないと言ってもいい。また、剣は鎮流の時代では早々殺しの道具としては使われないため、それへの対処を最低限にしか習わなかった鎮流には、剣を武器とするには向いていなかった。使えて短刀、ついで杖といったところだろうか。
だから捨てたのだ。それより素手の方がやり易い。鎮流は、すぅ、と息を吸った。