賽と狂犬、希望と亡霊23

「撤退の命が聞こえんのか!!この耄碌者が!!」
「…………」
「撤退……ッ、三成様!!」
勝家はそう怒鳴りがなる味方の将の言葉に、即座に左近から離れた。その一言で、彼のやる気は一瞬にして消え失せたらしい。
左近はそんな勝家に一瞬ムッとした表情を浮かべたが、織田軍撤退の報せだという事にすぐ意識を回し、三成の名を叫んだ。
「!」
三成はちょうどその時、政宗を大きく弾き飛ばした瞬間だった。政宗の体が宙を舞っている。どうやら二人の勝負は、三成の勝利で片がついたようだ。
三成は左近の声にぐるりと周りを見渡す。撤退の動きを見せる織田、トップがやられたことで動揺を見せる伊達。どちらも攻める好機ではある。
「……」
だが、豊臣の兵も織田と伊達の二大勢力を相手にして疲弊している。犠牲も決して少ないものではない。
三成もそれは承知していて、いくらチャンスとはいえ、この状況での無闇な追い討ちは仇となることを理解しているらしい。
「三成、今は納めよ」
そこへ、ずばり斬り込むように吉継の声がした。
いつの間に来ていたのか。上空からふわりと三成の隣に降りてくる。左近は訝しげに吉継を見やった。
「…今まで何してたんだ、あの人」
このタイミングで直ぐ様現れたということから見ても、現状を傍観していた可能性が高い。三成が負けることなど無いにしても、前線に来ておいてそれはいかがなものだろうか。
左近はふとそう思ってしまったが、生憎三成はそのようなことを気にする質ではないらしい、吉継の言葉に少し思案した後、頷いた。
「左近!」
「!はいっ!」
三成が大人しく吉継の言葉に頷いたことに不満を抱いた左近だったが、そんな不満もすぐに名を呼ばれたことであっさり飛んでいった辺り、我ながら現金なものだと思いながら左近は三成に駆け寄った。
三成は左近の耳元に顔を寄せた。
「斥候を用意しろ。どちらも尻尾をつかめるようにしておけ」
「え?…俺が、っすか?」
「当然だ。でなければ呼びなどしない。さっさとしろ!」
「は、はいっ!」
左近は三成の言葉に驚いたように三成を見たが、みるみる険しくなる三成の表情に慌てて踵を返した。

斥候なら自分の配下になったばかりの彼らを使えばいいだろう。その辺に向いていそうな面子は何人かいる。
あとは時間だ。撤退が始まってからのでは遅い。

「っと!!」
左近は勢いよく地面を蹴った。その場から離脱し、置いてきた自分の隊の所へ行くためだ。
その直前、ちらりと撤収する勝家に視線をやる。ちょうど勝家もこちらを見ていたようで、ばちりと視線が合う。
「…」
左近はにっ、と笑って、抜き身のままだった刀を一瞬勝家の喉元に向けて構えた。そしてすぐに、目的を果たすべく、その驚異的な脚力で地面を蹴り、あっという間にその場から姿を消した。