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忘れない為に ある女性の3月11日

土曜日、久しぶりに再会した友人が語ってくれた3月11日の宮城の様子は同じ地震を体験した私にさえ重いものでした。

私達とは違う大震災を経て、それでも自分は運が良かったと言ってくれた彼女の許可を得て、宮城のある一人の3月11日を書いてみたいと思います。

内容は私が彼女に聞いたものに、ユーチューブにUPされていた画像の情報なども含めて書いたものです。

微妙な違いはあるかもしれませんが、お許しください。


宮城県、彼女は多城市の工場で勤務をしていました。
多賀城市は仙台より沿岸に近い方向にあります。
震災の3月11日。
5階で勤務していた彼女は大地震に遭遇。すぐに避難訓練の通り、机に下に隠れました。
歩き出す棚、
机から落ちる資料、割れ物の音。
建物が崩れるのではないかさえ思う、立つどころか身動きさえできない恐怖が彼女達を襲いました。
本震は約3分間であったと言われていますが、その数倍にも感じたとか。
地震がおさまるとすぐ、避難訓練の通り彼女達は近くの広場へと逃げていきました。
雪が降る中、それでも、彼女達は一時的な避難だと思い、上着と携帯程度の持ち物で外に逃げ出したそうです。

近くの新日本石油のコンビナートから上がる煙が見え、不安になる中、間もなく防災広報により、建物の中に避難するようにとの指示が聞こえてきました。

何故、めちゃくちゃになっている建物へと不思議に思いながらも避難を開始して間もなく、津波が来る!

との声に皆、必死で階段を駆け上り逃げたそうです。
まだ新しく、設備のあまりないその工場を3〜4階まで上がった時に一階からドオン!という大きな音が聞こえて、扉を波が破る音が聞こえたとか。
「思えば、一階の自動ドアが津波で流された音だったんだと思う」
会社の職員全員が避難した後、普段は一般人立ち入り禁止の6階建て工場の入口は、高台を求めて避難してくる一般の人達にも開放されたそうです。

最初は足元を浸すくらいだった水。

けれど、何人かの一般の人達が階段を上り始めて間もなく、その水は瞬く間に人の頭を超え、一階を完全に浸してしまう濁流になったそうです。
流れる材木、まるでの玩具のように流されていく車。
男性社員の何人かは、建物に逃げ込めずでも、必死で車や木の上に逃げた人達を救出したそうです。上階にいた彼女達は、さらに上から外を見た男子社員に
「どうだった?」
と聞きました。
「見ない方がいい」と答えたと言う同僚の言葉の通り外の光景はまさしく一変。地獄にも似た光景になっていたそうです。

備蓄用の食料などが確保されていない建屋に1000人近くが取り残され、蓄電器の電源も夜10時ころには切れ、明かりも暖房もない中一夜を過ごしたと話してくれました。

「災害対策の人達が手作りのいかだを作ってくれて、できる限りの食べ物を届けてくれたんだ。でも、全員にはないから、袋菓子を何人で一つ、ペットボトルの水は5人で一本とかで分け合ったよ」

「よく朝、なんとか水が落ち着いたから降りたけど、一階はもう、めちゃくちゃ。がれきの山。なんとか廃材で道を作って貰って外に出た。‥‥皆流されて何も無くなってた。車があった人は、あの家に刺さっている車うちのかも、って言ってた」
「車が積み重なってたところもあった。まだ石油コンビナートの方が火事だったんでそっち方面の人は帰宅許可が出なかったけれどそれ以外の人は帰っていいってことになった。でも、財布や荷物を置いている事務所には入れなくて殆ど着のみ着のままで帰った」
「仙台市の家まで歩いて帰ることになった。携帯の電源も切れて、近くの駅の公衆電話から電話をかけた。途中で知らない人が奇跡的に捕まえたタクシーで側まで送って貰ったんだ」
「暫くは仕事も出来ず休み。買い物をするにも店に入るの一時間待ち、レジも同じくらい。
それでも買えたのは籠一つ分。
お肉が食べられたのは一週間後くらいかな」

電気は割と早く復旧したそうですが、水の復旧は2週間ほど、都市ガスの復旧にはさらに2週間かかったそうです。
「まる2週間近くお風呂に入れなくて、久しぶりに入れた時は本当に生き返った気分だった」

家族が全員無事で、家もなんとか住める状況で助かった彼女。
数日間は眠れず、家族みんな一つの部屋で寝たと言います。
「暫くは、とても眠れなかったけど。本当に、何度も走馬灯が廻った‥‥」
いつ余震が来るかもしれない、自分が通ってきた周辺で亡くなっていた人がいたかもしれない。
そんな恐怖は確かな心の傷となって彼女を今も責め苛んでいるようでした。
それでも、彼女は運が良かった被災者の一人です。
実際に逃げ遅れ、津波に巻き込まれた人。なんとか津波を免れたけれど、雪の降る氷点下の宮城で3月11日の夜を越せず、亡くなった方もいます。多賀城市がどれほどの被害を受けたかはネットでググれば見ることができます。
それでも多賀城市は本当の沿岸部というわけではありません。
もっと壊滅的なダメージを受けた街が多く存在し、たくさんの方が亡くなったと言う事なのです。

今だから、彼女は少し笑顔で、この話をしてくれることができました。

仮設事務所で今、仕事は始まっていると言いますが、周囲の復興はまだまだ進んでいるとは言えません。

皆さんにお願いします。
どうか、まだあの3月11日を忘れないで下さい。

まだ復興は始まったばかりなのです。

生きている喜び

土曜日と言っておきながら昨日も更新をお休みしました。
そんなのに来て下さった方々、ありがとうございます。

震災から約二か月半、仙台と東京の友人と再会してきました。

新幹線の中で出会った仙台の友人の前と変わらない笑顔を見て、なんだか泣き出しそうになったのは多分、彼女の方も同じだと思います。
でも、いつもの通りに
「ひさしぶり」
「元気だった?」
で再会しました。
宮城県はやはり本震の時が大変だったみたいです。
彼女の職場は多賀城市で決して海から近い、と言う訳でも無かったのにそれでも津波が身長丈以上に届いたと言います。
私も、彼女も震災での思いは本当に一度語りだすと止まらなくなるのですが、
互いに話を聞きあい、そして生きている事の喜びを改めて実感しあいました。

泊まったのは東京のラクーアという温泉センターなのですが、そこは私が東京に友人と遊びに行く度定宿にしていた所です。
足裏マッサージなどができるコーナーがあり、本当に何カ月かぶりに予約を入れたら、以前担当してくれた方が、顔を見て直ぐに
「ご無事でしたか? 心配だったんですよ」
と声をかけてくれました。
以前来たときに、東北から来たと雑談のように話したことを覚えていてくれたこと。
そして声をかけてくれた事。
接客商売だからということを指しい引いても、本当に嬉しかったです。

正直、福島県人だからと断られることがあるんじゃないかと、心のどこかで心配していました。
避難して戻ってきた方からそんな話を何度か聞きましたから。
でも
「そんなことあるわけないじゃないですか! むしろより、リラックスして頂きたいと思います」
と明るく笑ってくれたことになんだか緩くなった涙腺からまた涙が出てしまいました。

正直、自分はここで死ぬのかと思ったことも何度かあった震災直後の一週間。
「何度か走馬灯も廻ったね」
と言った友人と形こそ違いますが気持ちがよく解ります。

まだ、状況は厳しく先が見えません。でも、こうしてまた友達と出会えたこと、笑い合えたことが本当に幸せなのだと改めて実感しました。
あんまりはしゃぎ過ぎたのか、戻ってきてすぐに眠気に負けてしまいました。

まだそれどころではない方々もいて贅沢だと思いますがまた、みんなと会いたいと思いました。

線量計に込める願い

放射線関係のアイテムの中にフィルムバッジというものがあります。

就業時間中着けておき、一カ月とか一週間とか単位で調査機関に送ることで、就業時間中の被ばく量を図ることができるというものです。

基本的には医療機関などの放射線を扱うところの人が使用するものなのですが、今回の件で注目され、現在田村市の職員は200人程が着けてます。
支援物資の一つなのです。
自分の被ばく量が自分で解るわけでは無いので良い様な、悪い様なですが5月一か月分の調査が終わったあと、発送する予定です。

事故から二カ月を経て、やっと全小学校、幼稚園に線量計が配られたと報道されました。

ただ、これはあくまで「個人用線量計」人がどれくらい放射能を受けたかを測定するもののようです。フィルムバッジと似たもの。
空気中や、地面の放射能を測定するいわゆるガイガーカウンターはまだ配布されていません。

田村市には貸与のガイガーカウンターがありますが、約3週間の調査の結果、このガイガーカウンターの重要性は日ごとに増していくと実感しました。

毎日、外で測定し吹き溜まりなどの高い所を避けるよう指示できる。

空間線量を計り、高い日には外遊びを控えるなどができる。
草むしり、掃除などで放射線量の低下を実感できる。
窓を開けた時とそうでないときの線量を調べ、短時間空気の入れ替えを行うことができる。
など。
何より保護者や私達の安心感なども大きく違うのです。

個人用線量計に加え、さらにガイガーカウンターの配布を要望せずにはいられません。

沢山の人の動きや、声で文科省が子供の被ばく量基準を1ミリシーベルトとし、その為の援助をしてくれるとなりました。
20ミリまででいいと言っていたのに比べればより減らす努力を認めてくれることになったのはとてもありがたいことです。
正直、内部被ばくを含めれば現在の福島の子の多くがかなりきわどいところまで来ており、実際問題として1ミリを超えている子もいるかと思いますがこれで福島全体が子供達を中心に被ばく量を減らす努力をすることができます。

早くそんなことを考えずに、外で遊べる日が来ることを願いつつ、線量を減らせるよう頑張って行きたいと思います。
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がんばろう 福島

仕事で、講演会は見送りました。

市長がどんな話をしてたかとか興味はありましたが、またの機会もあるでしょう。
平日の夕方というのは結構きついです。
さて、最近街を行くと
「がんばろう福島」
ののぼりを多く見かけます。
お店とかに配布されているらしいです。
そしてそれとは別に、国道沿いにこんな看板を見かけます。
「復興支援 ありがとうございます」
国道沿いの店の前、手書きの黒板に書かれたメッセージは、原発などに向かう人への住民からの感謝の思い、でしょうか。

皆、先の見えない恐怖に口に出さない不安を抱えて生きている。
震災以降、人の暗い所や思いも、たくさん見てきました。
でも、こういう思い、人の心の尊さも確かにこの震災で知れたと思います。

「がんばろう福島」
の言葉。

「もう十分頑張っているから頑張らなくていいよ」

と言ってくれている方もいますが
「がんばろう」
という言葉は自分達の故郷を守る、守りたいと言う誇りと、貴方を助けたいと言う祈りなのだと思います。

一人じゃない。
皆、一緒なのだと。
だから、
「がんばろう 宮城」
「がんばろう 岩手」
「がんばろう 福島」
「がんばろう 東北」
そして

「がんばろう 日本」

その言葉を胸に、私達は明日も、生きて行きます。

嘘つきの理由と見えない敵

少し前のこと、東電がメルトダウンを発表しました。

1号機から3号機は水素爆発の時点でおそらくメルトダウンを起こしていたようだとのこと。
私は暫く、意図的にこの話題をブログの話題にしませんでした。

理由は勿論、そんなこと解っていたから。
で、今は思います。
ああ、嘘つき東電はこれを待っていたのかな?と。
最大に危険な時に大丈夫、大丈夫と言い続け、もうこれ以上悪くなりようがないとなってから実はメルトダウンしてましたと公表。


もし、これが震災当初の地獄のような一週間に公表されていたら、距離的に田村市は全市避難の対象になっていました。
東電は責め立てられ、国は新たな避難対応を迫られることになったでしょう。

何度も明日にはそうなるかもしれない、と言う話が聞かされていましたから。

もし、そうなっていたら皆、必死になって逃げ出した筈。
30kmから避難勧告が例えば50kmになれば田村市だけではなく、飯館、川俣、浪江などもひっかかります。

結果、いろいろ大変だったかもしれませんが一番濃い放射能からは逃げられた可能性があるのです。
けれど避難勧告は出されず、私達は見捨てられた。

そしてさんざん嘘をつき続け、誰も東電を信用しなくなった頃メルトダウンを公表する。

皆、もう東電を責める気もなく、今更避難する気もない。

なるほど住民をパニックにはさせずに済みました。

その地に住む人間達に起きたであろう大量被ばくと引き換えに。

何度も言いますが、もうどうでもいいです。
原発が実はメルトダウンしていたかとかそんなことは今の私達の生活に関係ありません。

必要なのはこれから、私達が子供達と安心して生きて行ける保障と補償。

それは地表の除染であり、健康の管理であり、そして何より原発の終息です。

除染の努力はいくらでもできます。でも原発を止める事と放射性物質が処理できる廃棄場を作る事は私達はできないのです。


福島を元に戻す為に、その方法さえわかれば、私達はなんでもやります。

嘘つき国家や東電なんか当てにはしません。

だから、私達にちゃんと戦わせて下さい。

明日、田村市で市長も含めた原発事故に関するフォーラムが開かれるそうです。できれば行ってみたいと思います。
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