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福島の言葉

元避難準備区域の国道沿いにあるメッセージ。

福島からの言葉です。

0.9の中で

元避難準備区域
都路岩井沢 馬酔木沢の桜と桜並木

周辺の線量は約0.9マイクロシーベルト/h

でもこの辺はけっこう家に戻っている人も。
でも満開の公園に人影は無かったですね。

元警戒区域の桜

都路地区 子安神社の桜

名のある木ではないけれどここは元警戒区域。
昨年は誰にも見て貰え無かった桜達が今年はけんを競って咲いています。

境界線の桜

本日、都路散策中

ここは原発からちょうど20km。
かつての境界線。
そこにも見事な桜が咲いています。

10個のパンと20人の子供

綺麗な桜の写真はまだいっぱいあるのですが、どうしても皆さんの意見をお伺いしたくて。
某所、とぼかしても直ぐに解るので武田氏のブログにこのような記述がありました。


『資源の方面で次のような話があります。
「子供が20人いるとして、パンが100ヶあるときには子供にゆっくり食べさせて良いが、パンが10ヶになったら先に取らせろ」

これは「どんなにパンが少なくても、我が子を餓死させて、他人の子供を助けるのは健全な考えとはいえない」ということです。これはこの世の矛盾についての一つの指針です。本当はパンが十分あることが必要なのですが、もしもない時には、やはり我が子を救おうとするのは仕方がない。それが結局、集団の最も良い状態をもたらすということです』

 私は、少し違うと思いました。
 私なら10個のパンを半分ずつにして子供達20人に平等に分け与えます。
 平等が必ず正しいことではないとは思いますが、でも目の前の10人が飢えて死にそうなその目の前で自分の子供だけにパンを食べさせることが果たしていいことなのでしょうか?
 この話で言うなら20人の子供がいて、10個のパンがあって親は先にとらせろと子供に命じる。しかしパンを取れる10人に自分の子供が入れない、飢えて死ぬ10人の子供に自分の子供が入ってもパンを食べれる子供の親が言う
「仕方がない」「それが集団にとって一番いいのだ」
という言葉を納得できるでしょうか?

 私は納得できません。自分の子供を助けてくれなかった相手をきっと恨むでしょう。
 それにもし自分の子供がパンを取れたとしてもそれによって一人子供が飢えて目の前で死んだらその後、子供は果たして幸せに生きられるでしょうか?
 私は無理だと思います。
 もし、パンを半分ずつ食べたとしたら、確かに満腹にはならないかもしれません。
 でも、両方が今を生きることが出来る。パンを一つずつ食べられるようになるまで待つことができるかもしれない。
 一緒に助け合って、励まし合って生きて行くことが出来る。
 それが本当に集団にとって良い状態、正しい姿ではないでしょうか?

 飢えて死ぬ子供がかわいそうと口で言いながら、その眼前で自分達はお腹いっぱいパンを食べて、飢えながらも一生懸命頑張っている子供を足で踏みつける。

 武田氏がいう事はそういう事です。
 私はそれは断じて違うと思います。

 この言葉は全体の一文を取っただけですので、全体としての発言に頷けないところがないわけではありませんが、それでも自分達だけ幸せならそれでいいという思想は間違っていると、思うのは私だけでしょうか?
 いつか、自分達が目の前でパンを取り上げられるかもしれないのに。

 皆さんはどう思われますか?

 それでも、結局頑張るしかないんですけどね。
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