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本の持つ意味

コメントに寒しじみさんが寄せて下さったとおり、震災直後の情報はラジオと新聞が主でした。

私が勤めていた町の災害対策本部にはテレビがあり、携帯の充電ができるようになってからはワンセグも見られましたがでも、正直いいニュースは何もなく、原発が爆発したというニュースに、悲惨な沿岸部の様子などばかりがトラウマになりそうなほど流され続けていました。

本の流通も完全に止まり、本屋にちゃんと再開したのは4月になってから。
震災直後に発行されつてで手に入れてきた人から提供されたジャンプは避難所の子供達に長く笑顔をくれました。

今は本屋の目立つところにたくさんの震災関連の本があります。
週刊誌も目立つ見出しで大きく原発の恐怖や放射線の話を載せています。

でも、私もほとんど買いません。
昨日買った民報新聞の縮小版が唯一の震災関連の本です。

マイクロシーベルト、放射能、放射線、放射性物質。普通に生活している分にはあんまり気に留める必要もなかった言葉や情報が、震災後私達にたくさん襲いかかってくるようになりました。
情報の海やそこに見える悪意に溺れてしまいそうです。

ネットニュースのコメントや、自分勝手な文章を書く記者など読むと滅入る記事も多いので、今はもうシャットアウトしています。

もし、偶然目について、それが必要だと自分が思ったらそれを買うくらいなものです。

元よりたくさんある本の海。

出会える本はめぐり合わせで縁があったということなのだと思います。
沢山ありすぎる情報に踊らされて、滅入るよりは知らない方が楽に生きられると今は、思います。 本は本来震災のジャンプのように人を励まし支えるのが正しい役割だと思うのです。



あ、子供達の安全確保と、自分達の身を守る為、必要な情報収集は勿論していますよ。でも、本当に必要な情報は未だに少ない。放射能防御の対策とか、内部被ばくを押さえる栄養の取り方とか。自分でできるお手軽除染術とか。 困ったものです。

福島は負けない!

今日、偶然本屋で面白い本を見つけました。

正確に言うなら面白い、というのとは語弊があるのですが。
福島民報新聞の東日本大震災縮小版。
つまり福島地方新聞です。

私達は震災直後からずっと災害対策本部に詰めていました。
新聞は避難所には届けられていましたが自宅には届きませんでしたし、忙しくて読んでいる暇がなかったし避難所の物は避難している方の物と言う考えから勝手に持っていくこともできなかったので、あの当時、どんな風に大震災が報じられていたのか。

興味深くてつい買ってしまいました。

震災翌日12日の見出しは
「巨大地震 県内45人死亡370人死亡」
「無残、悪夢、自然の猛威」

ところが翌日には
「福島第一原発で爆発 放射性物質拡散化か? 燃料一部溶解か」
「続く余震。進まぬ救助」

さらに翌日には
「県民12万人避難 第一原発三号機も炉心融解」

「水素発生 爆発の恐れ」
「醒めぬ悪夢」
「国内最悪の原発事故」
となっていきました。
このころから
「負けないで」
と避難所の人達の様子を写す記事も出始めたのですが翌日15日には
「原発3号機も爆発」
「メルトダウンの恐れ?」
と何一つ希望の無い状況が報じられ続けたのです。

16日は
「高濃度放射能漏れ 屋内退避30kmに拡大 県内死者500人を超す」

17日には
「原発危機依然続く」
「生活物資ピンチ ガソリン、灯油どこ?」
と続いて行きます。記事の写真も福島、郡山が中心で田村市にはほとんど取材も来なかったのですがそんな中、私達の心を支えた言葉がありました。

「福島は負けない」
避難所の様子を写した記事に添えられた言葉は、地獄のような毎日の中で小さな光となったのです。

思わず読みふける事数時間。

気が付いたらもうこんな時間になっていました。
福島の新聞が当時どんなことを報じていたか。

これから時間があったらまた書いてみたいと思います。

誰かの為に。

土曜日と日曜日は、東京で思いっきり遊んできました。

震災を支えてくれた友人と三カ月ぶりに再会することが出来たのです。

東京と福島に分かれていますから、正直三カ月会わない事なんか今までならざらです。

でも、今回は本当に長く感じました。
再会して思わず抱き合ってしまいました。

また、彼女達と会う。
そして一緒に遊ぶ。それを心の支えにして、地獄の一週間も毎日送ってくれるメールに励まされてなんとか生き抜いてきたからかもしれません。

丁度、翌日が彼女の誕生日で、皆で遊んだあと、お誕生日のお祝いをして、ついでにドタバタで祝えなかった5月生まれと4月生まれの友達も祝って、幸せな時を過ごしました。

私の誕生日はまだ先の先、来年の話ですけれど、正直祝われるよりも祝う方が、嬉しいし楽しいです。
プレゼントの用意をするのも楽しかったですし、喜んで貰えたのも嬉しかったです。

誰かの為に何かができる。
そして相手が喜んでくれる。それに本当の幸せを感じるのです。

「人と言う字は支え合っている」というのは有名な言葉ですが、それとは別に
「人間は人の間と書く。人と人の間にあるからこそ人間として生きて行けるのだ」

というのも聞いたことがあります。
そしてそれを震災後実感したように思います。

東京はもう殆ど平常通りで、その当たり前のそっけなさが少し嬉しかったです。
また必ず会おうと約束して別れました。
絶対に、必ず会いに行きます。

切り替えの時

明日というか今日ですがブログをお休みします。
ひょっとしたら、明後日も。
友達と一緒に小さなパーティをすることになっています。

震災を支えてくれた仲間と思いっきり遊んで遊んで、6月誕生日と5月誕生日と、4月誕生日だった友人の誕生祝を皆でする予定です。
正直、地獄のような震災直後、また、皆と再会するんだ。
一緒に遊ぶんだ。
それを心の支えにして生きてこられたような気がします。
本当に楽しみです。

その間にちょっとまた暴言と言うかを一つ。

現在、ホットスポットと言う言葉が話題になっていますね。
周囲に比べて異常に放射能数値が高い場所の事です。
風向きなどの関係で距離などと関係なく発生するこのホットスポットですが、それ以前の問題として茨城、栃木などの北関東、さらに埼玉にも実はすでにかなりの放射性物質が降り注いでいると言う話があるのです。

先週見たテレビでですが、東京都のある公園での数値は0.6マイクロシーベルト。
他にも0.3〜0.5マイクロシーベルトの場所があると言います。
この数値は田村市で言うなら警戒区域の都路村並。
避難区域外で言うなら一番近い常葉町と同等か、それより高い数値になります。現在文科省が出している調査数値は福島市で計測しているので、他のエリアよりも桁二つ以上違うのですが、福島は広いのでかなり数値の差が出るのです。
その為、現在福島からだけではなく、東京や埼玉からでさえ沖縄に自主避難する人達が増えていると言います。

放射能は目に見えないから怖い。
だから逃げる。
子供の事を思えばそれは確かにある種の選択でありそれをどうこう言うつもりもありません。

ただ、福島だけを生贄の羊のように「原発の被災地」と見ることはもう現実的ではないような気がします。
例え、どんなに騒ごうと何をしようと、東電の不手際や政府の対応の遅さとかを責めても時は戻らず、海に、空に放出された放射性物質は消えません。

それがどんな影響をもたらすかは本当に、今の時点では解らないのです。

福島は原発被災地で或る分、東京よりはきめ細かいデータ観測などを行っています。

当初から地上50センチメートルで測定を行い自治体レベルで土の除去をし、放射能のデータなども集めてその上で窓の開閉や、エアコンの設置なども行なっています。
マスク着用の指導、プールの使用禁止などの対応もしており子供たち自身も放射能に気を付ける生活を心がけるようになりました。

だからむしろそう言う意識が徹底されていない地域の方が、長期的に見て被ばくを高く受けてしまう可能性はないでしょうか?

前にも冗談で言ったことがありますが

「毎日の放射能数値が花粉情報のように公開され、高い日には注意してマスクや長袖を身に着ける。
放射能に負けない料理が話題になり、病気の発生率は低くは無いが、健康診断をこまめに受けるので完治率は高い。

結果一番の長寿県に」

そんなことが起こりえないとは限りません。
皆さんを不安な気持ちにさせたいわけではなく、ただ誇りを持って生きていけるように。
これからを生きていく子供たちが少しでも不安な気持ちを減らして元気に生きていけるように。

私達はそろそろ頭を切り替える時ではないのでしょうか。

「放射能の無い生活」から
「放射能と一緒に生きる生活」へ。

放射能を無いものとしてみたり、怖がって逃げるばかりではなく、ちゃんと向き合って対処していけるように。 

支えられている平穏

最近、めっきりテレビでも話題にならなくなりましたが、警戒区域内の一時帰宅はほぼ毎日行われています。

一度に参加できるのはいいところ100世帯以内なので、まだ全員が参加できたわけでは無いでしょうが、出勤途中に良く一時帰宅に参加するのだろうと思われる人たちの乗るバスが国道を行くのを良く見かけます。

今まで滅多に見る事の無かった自衛隊の車も1日一回は見ます。
偶にコンビニで買い物をしている若い隊員さん達を見かけることも。
一時期は福島県警以外のパトカーも良く見かけましたが、最近はほとんど見なくなりました。

治安維持に協力して下さっていた各地の警察の方達が戻れるようになったのならいいな、と思います。

ただ、今回、自衛隊の皆さんは本当に大変だったと思います。
私の知り合いにも夫婦の自衛官両方が災害派遣に出動することになって、子供がその間実家の祖父母に預けられたと言う話があると聞きました。

女性自衛官は炊き出しの任務を担当しながらも、自分達は携帯食料を食べていたとか、自分達も精神的に参りそうになっているけれども、避難所の人達の相談に乗ったとか言葉では言いつくせない程苦労しながら働いてくれているのだと本当に頭が下がる思いでした。

震災から3か月が過ぎて、通常任務に戻った方も多いようですが、まだ毎日走る自衛隊の車を見るにつけ、まだ見えない円の向こうでは見えない敵との戦いが続いているのだなと感じます。

原発の中で作業を続ける皆さんも含め、私達の「日常」は今もたくさんの人に支えられているのだな。

と思うのでした。
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