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お墓の前で

まずは一言お詫びを。

私は、京都、関西の方を含む、全ての人を批難しているわけではありません。
全員が被災地援助に自己満足を感じているのでは、とか、東北を汚染地と思っているとかそう思っている訳でもありません。
多分、9割の方は本気で被災地を心配してくれて、被災地の為になることをしようと思ってくれていると解っています。
それは、本当によく解っていますし、感謝もしています。

セシウムさんの事件、
大文字焼きの件、
私達を思いやり、声を上げて下さった方がいることに心から励まされました。

「そういう」人は本当に一部の人です。
いえ「そういう」人も心は、善意を持ってやっていると思うのです。

人は誰しも「そういう」人になる可能性を持っている。

私自身も、冷静に見れば「イタイ」ことを言っている「そういう人」かもしれません。

福島にいることをいいことに、大した被害もないのに被災者ぶっていると言われても仕方ないとも思います。

でも、そうならないように考えることはできる訳で、私もなるべく感情のまま文を書くのではなく、良く考えて書いて行かなくてはならないと思っています。

京都を含む関西の皆様、気を悪くされたとしたらどうぞお許し下さい。

今、お盆です。

午前中、私も墓参りに行ってきました。
地震で墓石が倒れたとか、警戒区域で墓参もできないという友人もいますが、我が家は墓石の位置が少しずれ、卒塔婆が倒れたくらいでお墓の大きな被害はありませんでした。

うちの墓のある墓地も被害があったお墓は修理もおおむね終わり、たくさんの人がお墓参りに訪れていました。

私は信心深い方ではありませんが、震災直後で行けなかった春彼岸の分まで掃除とお参りをしてきました。

「千の風になって」という有名な歌にお墓の下に自分はいない、というフレーズがありました。
墓参に行くとそれを思い出します。
そしてそのとおりだとも思います。


けれど、お墓に参ると言う事はやっぱり人には必要なのだとも思います。
残された者が、逝った人を思い、心のけじめをつける為に。 前に向かって歩き出す為に、お墓はやっぱり必要で心の支えだと思うのです。

震災後、特にそう考えるようになりました。

今もまだ、見つからない行方不明の方が待つ家族の元に帰り、そして墓参もできない方々が一刻も早くお墓の前で祈り、心のけじめをつけられるように
祈り、願っています。
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