私の言葉は、果たして今のドリフトに届くだろうか。
「ドリフト、お前はもう独りじゃない。…お前だって気付いている筈だ。差し伸べられる手は、いつだってお前のそばにある事を」
今この時も、ドリフトの為に必死で走り回って、声を張り上げて彼の名前を呼んでいる仲間がいる。生を願う友がいる。だから教えてやらなければ。恐れ知らずのようでいて、人一倍臆病な彼に。
差し伸べられた手を、おっかなびっくり眺めているだけでは、いつまでたっても独りぽっちの時と変わらない
「目を閉じてはいけない。耳を塞いではいけない。そして何より愛や、優しさを与えられるのを恐れてはいけない。それらを受け取る権利を、既にお前は持っている」
最後にもう一度、実体を持たない指先でドリフトの頬を撫でる。本当なら今すぐこの腕に抱いて、安全な場所に連れて行ってやりたい。冷たい雨を拭い、もう大丈夫だ安心しろと言ってやりたいけれど…それはもう叶わない。この手はお前を労る事も、手を引いて導く事も出来やしないのだ。
私は、死んでしまったのだから。
今触れている指先の感触すら、本当に伝わっているのか定かでは無い。死者というものがこれほどまでにもどかしいとは、生きている時は考えもしなかった。
「…今度はお互いの声が聞こえる筈だ」
お前がこちら側に来るのは、もっとずっと後でいい、だからどうか生きてくれ。
どうか、届きますように。
祈る。という行為に、果たして意味があるのかわからない、神に向けてではない、あえて言うなら彼自身に向けてそう、強く願った。
* * *
声が、聞こえた。
いつしか雨は横殴りの激しさになり、ざあざあという音にごうごうと風がうねる音が混じり、時折空が割れそうな程激しい雷鳴が轟いている。必死に辿ってきたオイルの流れも、雨に薄まり分からなくなっていた。
「ドリフト?……っドリフト!近くにいるのか!ドリフト!!」
でも聞こえた。確かに彼の声だった。
「ドリフト!!」
叫ぶたびに喉がびりびりと震える。以前はよく絶叫要員だのと仲間にからかわれていたが、アップグレードをしてからこんなに大きな声を出すのは初めてだった。
「ドリフト!!」
もう辺りは真っ暗だ。黒雲が広がる空では星一つ瞬かない。あの夜のように月明かりは導いてくれない。
「ドリフトォォォーーッ!!」
泣き喚く雨風が叫ぶ声すら掻き消そうとする。
「…っ!」
踏み出した途端、張り出した枝にしたたか額を打ち付け、一瞬息が詰まる。一寸先は闇。という言葉に違わず、足元はおろか自分の目の前すら定かではない。じいんと痛む額を抑えながら、目を皿のようにして辺りを見回した。…少し考えて視界を暗視からサーモセンサーに切り替える。声が聞こえたという事は、彼はまだ意識があるという事で、更に声が拾える範囲内にいるという事。それならば動力炉の熱を捉えられるかもしれない。感知能力には自信がある。
(どこだ。どこにいるんだ)
全神経を集中させ、もう一度辺りをじっくりと見回した時、25m程離れた場所に微かな熱反応を感知した。
その瞬間、かっと身体が熱くなる。
見つけた?いや野生動物かもしれない。そこにいるのか?もし違ったら。早く会いたい。会いたい。
ぐるぐると渦を巻く思考を持て余したまま、泥と流れる水に足を取られながら、一歩づつ近づく。期待と不安がスパークをかき乱して胸がくるしくなった。枝に頬を引っかかれ、石につまづいて膝を付く。
そして
「ドリフト…?…!!っ、ドリフト!」
視界を再び暗視に戻し、ライトを向ければ、背の低い木の下、うつぶせに倒れる白い機体。探し求めたただ1人。
《パー、セプ…ター》
聴覚機関からではなく、通信機から聞こえるのはザーザーとノイズが混じった音の無い声…それは酷く聞き取り辛かったけれど、確かに彼は私の名前を呼んだ。
ドリフトは、光の消えかけた瞳をさまよわせ、何か伝えようと口を開くが、それは音になる前に雨に流され消えていく。それでも必死に、ひたすら必死に唇を動かす。その様はどこか憐れで悲しくて、ジリジリと万力で締め付けられるように心が傷んだ。
じわり溢れそうになる涙を、まだ早いと押し留め、彼の身体を抱き起こす。
「ドリフト」
そして彼に聞こえるようにはっきりと、顔を近づけて告げた。
「君を、助けに来た」
* * *
ふわりと頬に暖かさを感じたのを最後、ふつりと、糸が切れるようにウイングの気配が途切れる。
慌てて気配を探ろうとして彼の言葉を思い出し、精一杯目を開いて狭む視界を押し上げ、必死に耳を澄ます。
唸る風、激しい雨音、そのさなか。
遠くから声が聞こえる。
自分の名前を叫んでいる。
「 ―っ」
脳裏に閃くのは寡黙な狙撃手の姿。彼の名前を呼ぼうとした口は、はくはくと頼りない息を吐くのが精一杯で、いよいよ自身に残されたエネルギーが僅かである事を悟った。
パーセプター
パーセプター
俺はここにいる。
必死に挙げる声は、ちっとも音になってくれない。
パーセプター
パーセプター
彼の声が、遠くなる。
このまま見つけてもらえなかったら。と考えた瞬間、怖気で体が震えた。
嫌だ。こんな所で。たったひとりで絶えてゆくなんて。どうすれば伝えられる?どうすれば声を届けられるんだ?
そして考えるうち、ふと自分が通信回線を切ったままだということを思い出した。
頼む、繋がってくれ
回線を開くと、相も変わらず耳障りなノイズが流れていて、駄目かもしれないと一瞬諦めそうになる。しかしもう、そんな弱気は言ってられなかった。
《パーセプター!!!》
ありったけの出力で呼びかけるうち、雨音とは明らかに違う、不規則に跳ねる泥の音が地面から聞こえてきた。それが足音だとわかったと同時に、胸中に湧き上がって来たのは不安。
もしも、彼じゃなかったら
だが既に指先一つまともに動かせぬ身だ、逃げる事など出来る筈がない。
《パーセプター》
頼む、早く返事をしてくれ
《パーセプター》
あんたを信じさせてくれ
《パーセプター》
自分の隣で、足音が止まった。
朧気なシルエットが自分を覗き込み、片膝をついた。まるで水に溶けるように、何もかもがぼやけて、どんなに目を凝らしても視界は霞んでいく。
気付けば、あれだけ騒がしく鳴っていた雨音が、もう聞こえない。耳障りなノイズ音も、哮る風の音も聞こえない。
意識を繋ぐ糸が、ゆっくりゆっくりとほつれて
途切れる。その寸前
ふわり、身体が抱き起こされた。
そして
「ドリフト」
「君を、助けに来た」
その声は、まさしく待ち望んだ人のそれであった。
この時の安堵と、泣き出したい位の嬉しさを、最早言葉に表す事など出来ず、エネルギーは空っぽなのに、不思議な充足感に心が満たされた。
自分の心にあった空虚に、暖かい何かが注がれる。
「 」
言葉は声にならなかった。
* * *
目覚めた時、はじめに目に映ったのは眩しい白。但しそれは太陽の下に輝く明るさではなく、清潔だけどどこか無機質なほの青い白さだった。
「あ、ドリフトおはようおはよう。気分はどう?お腹空いてない?」
次に感じたのはとてもおしゃべりな仲間の声、未だ半分は微睡みに浸かったままのブレインの動きは鈍く、彼の話の内容を汲み取る前に、どんどん言葉が流れていってしまう。
ぼんやりとした視界のまま、空色の影が気ぜわしく喋る様を、何と無く眺めていると、いつの間にかかれの指が鼻先まで伸びていて、ばちんと、やや乱暴に鼻を弾かれた。
「いっつ…」
「目が覚めたかいお寝坊さん!」
「…おかげさまで」
その軽い痛みで微睡みは完全に掻き消え、再び彼の顔を見やると、焦点が合ったクリアな視界の中、ブラーは悪戯っぽい笑みを浮かべていて、詫びるようにちょんちょんと鼻を撫でる。くすぐったさにそれを手で制して身を起こし、ぐるりと辺りを見回せば、はたしてここが軽傷者用の病室であると知れた。
8つ並ぶベッドのうち、5つが埋まっており、自分の隣以外でも、そこ此処で見舞いに来た仲間と談笑する姿が見られる。
「パーシー呼んで来るから大人しくしててね」
軽く手を降って病室を後にするブラーの背に会釈をし、ふうと小さく息を吐いた。あの晩の事を思い出しながら、無意識に彼の名前を反芻する。
パーセプター
その度にスパークの辺りが暖かくなるのはきっと、気のせいではない。
パーセプター
ああ俺は、彼の事が好きなんだな
そう気付いたら、またスパークの辺りがほわほわと暖かくなった。
無論、今まで彼を嫌っていた事など無い。どちらかと言えば好ましい部類だったのだが、最初の頃に感じていた"好ましい"と、今の"好き"では随分違うように思う。
あの日パーセプターが自分に告げた「好き」と今の自分の"好き"は、はたして同じなのだろうか。
徐々に近づいて来る2人分の足音と、賑やかなお喋りの声(賑やかなのは片方だけだが)に耳を傾けながら、彼と顔を合わせたらはじめに何と言おうか。と考えを巡らせた。