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捨てられた町で笑う

翌日は雪でした。
避難所に泊まるつもりで家に泊まって久しぶりに熟睡した私は着替えや身の回りの品を持って家を出ました。
家族は忙しそうに仕事をしていました。近くの避難所の炊き出しを手伝うのだと言っていました。
私は今日からは避難所に泊まると告げました。もうガソリンが不足しかけていたからです。
笑って頷いた母は
「いってらっしゃい」
と私を見送ってくれました。
「いってきます」
と私は家を出ました。
辿りついた避難所は昨日の張り積めた空気とは全く違う雰囲気が広がっていました。
「避難どうする?」
「どこにいっても同じだしって」
「うちも」
明るい笑い声が響きます。近くで唯一開いている個人商店でお菓子を買って交換して食べる。
そんな中の心配は車のガソリンと灯油でした。もう赤ラインに入ったというものも多くいました。
ガソリン節約に泊まりがけるものも増えています。また灯油が少なくなって、避難所もストーブが節約に運転になっています。支援の服を選んで重ね着して過ごす人達。すでに何度か救急車で運ばれた人もいます。
そんな中避難所の子供たちは元気に建物内を走り回っていました。
また支援の服を畳み直したり掃除をしたり食事の配給の配布を手伝ったりもしてくれています。
支援の漫画を見たりトランプしたりかくれんぼをしたり。
外には出られないながらもその姿にみんなが励まされていました。

さてお昼の配給。
菓子パンがあったのを見てだれかが口にしました。
「こんなの見たの久しぶり」
思わず苦笑が広がっていました。
因みに職員の食事は避難者とは違う模様。家から来る人は手弁当だったりもします。
そんな中ガソリンが地元に届かない理由がわかりました。
運転する人が来たがらないのだというのです。
因みに地元に最近進出した大手スーパーは撤退、市外から通勤していた人は事故後もう来たがらないというのは知られていました。
因みに外からの唯一の支援である食料も市外まで職員が取りに行くという話です
そんな話を笑い話のように聞きながらもう余り興味もなくなったテレビをたまに覗きます。
ここまで来たら私達は原発の方達を信じて待つしかないのですから。
なるべく外に出ないようにと指示されています。
でも食料も運ばないと行けないしゴミの始末もしなくてはなりません。避難者の方が
「雨や雪に触れないようにしなよ」
と心配してくれます。外に出る時はもちろん帽子、マスク、手袋着用
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分け目の日

私は翌日一睡もできないまま、翌日出勤しました。
その日は雨、まるで私の心を表すようでした。
震災から4日。冷蔵庫の中のものはまともに食べられません。買いに行こうにも店はほぼ閉店状態、開いていたとしても私達の帰る時間にはとうに売りきれ閉店です。
避難所で食べるおにぎり以外のものを口にできない5日間。元より食欲などありません。
家族はもう避難したかなと思いながら避難所に向かいました。その途中で聞こえる防災無線が市職員の集合を命じます。
私も一応貴重品を身に付け着替えなどを少し用意して避難所に行きました。
みんな顔に緊張を漂わせています。
すぐにも避難誘導かと思って待機をしていました。
今日まで余震は何度もありました。それこそ震度4くらいは毎日、すでに地震になれてしまって微かな地鳴りからもうすぐ地震が来る事がわかります。震度4くらいでは誰も怯えません。平気な顔です。でも今日はみんな怖い顔をしています。原発は日に日に悪化し第一第三が爆発した。第二がおかしくなったと大騒ぎ。4もおかしくなって放射能が飛散したとかで午前中が終わる頃には避難域が拡大され20kmから30kmに拡大されました。とは言っても屋内待機で緊張の避難勧告はいつまでも出ません。避難しないのなら私達は仕事をするしかないのです。
避難した方々に食料を配り、町民からの支援物資を受けつけ分配する。風邪気味の方に衣服を見たて薬の相談をする。
笑顔で。
でも。みんなの心は壊れる寸前でした。破裂しそうな心臓を抱えた私を支えたのは友人からのメールでした。
心配をかけると解っていて田村市にいると沈黙を祈ってて下さい。とメールを出しました。例え気休めでも外と繋がっていると、心配してくれる人がいると思う事が私には必要だったのです。
友人達からはすぐに返事が来ました。
負けないで。
繋がっている。
応援している。
何度でもメールをしてと。
そんな友人達の言葉に私は何度も何度も何度も携帯を開きました。地震から数日携帯の電源だけは切らせませんでした。
行政局の入り口にはボランティアの受けつけ口と支援物資の受けつけ口があり、そこにはマスクをかぶったぬいぐるみがありました。
支援物資の中に入っていたというマスクはだれかの手でガムテープのラインが付けられタイガーマスクを模しているようでした。
ここを助けて欲しいという祈りの現れだったようでした。
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迫り来る不安

地震から4日。
避難所の人数は約三分の一になっていました。
ここまで残られた方は避難の当てのない方がほとんど。
避難の疲れもピークでありながらみんな一生懸命がんばっていました。
自分達の使うところだからとトイレ掃除や配給の仕事は避難の方もやって下さるようになり、体制も落ち着いて来た頃、あるひとりがふと気付きました。

「ここには誰も来ないね」
言われてみればそうでした。市長はおろかマスコミも議員も誰ひとり。
働いているのは地元の消防団やボランティア。そして避難して来た人達と職員達。この町から西の他所からの人は誰ひとり来ていませんでした。それに気付いた者達の顔に少しずつ焦りが見え始めます。さらには通勤の人達の顔にも違う焦り。ガソリンが無くなりかけているのです。でも毎日、仕事はある。中には避難に泊まっている人も出始まり疲労と睡眠不足はピークになっていました。でも避難の方達にそんな顔は見せられない。
そうこうしているうちに原発は次々のトラブル。避難の範囲は最初の10km以内から20kmに拡大され田村の一部もかかるようになりました。彼らは別の避難所に移送されていきます。避難者と何より働いている者達に緊張が走りました。
流れる噂。

福島原発はチェルノブイリだ!
明日にも爆発するぞ。もう放射能はばらまかれている!
すぐに避難しないと被曝するぞ!

けれどそれを表に出す事はできません。帰るところも無くなり着のみ着のままの避難所の人達。生後2ヶ月の赤ちゃんもたくさんの子供たちもいます。自分達も間違いなく疲れているのに自分の町を離れて人々を守ろうと他の町の人に気使いながら必死に働く大熊町の職員の方々。そして同僚や友人達。みんな一生懸命に笑いながらその日を過ごしました。
翌日にはここまで避難勧告が来るかもしれない。
その日いつもより早く帰った家では妹や家族が避難の話をしていました。
私は残ると告げ早くベッドに入りました。でも眠れるはずもなくただ長い夜が過ぎるのを布団の中で必死に過ごしたのです。
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逃げられない人々

避難所に最初にやって来た方は大熊町の約1500人
その数は2日を過ぎる頃には約半分になっていました。
頼ったり避難できる場所がある方は移動していきました。
各避難所には移動や連絡先を知らせる紙がたくさん貼られています。
しかし、避難所に残る方とこの地に住んでいる人は逃げる事はできません。
また逃げる事ができない人はもっといます。それは避難所の方々のお世話をする役場の職員達です。
地震からこの日までみんなほぼ不眠不休で働いています。
避難者の受け入れ手続き、名簿作成、安否確認の電話対応。人数確認、食料配給、健康管理、要望対応など。一般職員はまだ朝7時から夜9時に帰る事が出来ますが上の職員は帰れません。

地震から一度も家に帰れない人もいます。ここまでは日に二度三度おにぎりひとつを食べるだけの食事。三食必ずおにぎりやパン。時にはカップ麺も支給される避難の方々の方が良いものを食べているねというのは冗談まじりの本音でした。目を血走らせて、でもみんな必死になって働いていました。
避難所の方も2日目。色々不便は出てきます。特に着替えや身の回りのものが求められるようになってきます。
幸い色々なところから寄付が集まり歯ブラシやタオル、毛布などはほぼ一回りしたようでした。着替えは子供服を中心にかなり集まりちょっとしたブティックのよう。下着はさすがあまりありませんが個人商店があり多少の食べ物、品物の入手も出来ます。
体育館は暖房が少なくかなり冷え込みますが毛布などはひとり1枚以上渡っていたようです。この頃には当初繋がりにくかった携帯もメールはかなり通じるようになって知り合いの安否も知れるようになり落ち着いた避難所の一番の心配は余震と原発。
毎日、同じ事を言うテレビと悪化爆発を繰り返す原発に苛立ちながら密かに感じる嫌な予感に眠れない3日目の夜を過ごしたのでした。

恵まれた避難所

翌日は土曜日でしたが市の職員は全員が出勤。行政局にはボランティアの方々もたくさん集まりました。
何度も駆け抜けた防災無線は大熊町の人達が来る事、毛布や布団が足りない事を伝えます。
するとたちまちたくさんの人々が毛布や布団を運んで来てくれました。
かつてこの町は大災害に襲われた事があり受けた恩を代えそうという思いがあるのだろうという事でした。

やがて到着した大熊町の方々はほとんどが着のみ着のまま。
財布を持って来られた方は幸運というところでその方々にロビーに山と積まれた毛布や布団はあっという間に渡されて消えていきました。

最初にいうなら地震の後この地に食料以外の外からの支援が届いた事はありません。ほぼ全てが民間の人々の支援です。
でもこの避難所はかなり恵まれた避難所であると言えるでしょう。
電気は1日水道は3日で復帰して3食いろいろな食料が配られています。
着替え用の服もたくさん集まり選ぶ事ができるほどです。
細かい不便はありますが他所に比べてかなり条件はいいはずです。
ですがやがてこの地をそれ以上の恐怖が襲う事になります。
それは放射能という目に見えない恐怖でした。
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