悪魔街に車道はない。
煉瓦で舗装された道は、全て歩道なのである。
通常、悪魔は自動車を所有していない。
所有しているとすれば、それはごく一部の“貴族”と呼ばれる者だけだ。

そして今、七区では唯一の自動車が、煉瓦の道を凄まじい速度で疾走している。
ハンドルを握っているのは、ひょろっとした悪魔のサムだ。
その表情は硬く、僅かに焦りが滲み出している。

(畜生!あのシスターめ…!)

車体ぎりぎりの道を飛ばし、ちらりとバックミラー越しに後部座席を見遣る。
金髪の少年が、膝を抱えて俯く姿を捉えた。
その姿に、胸がきりっと音を立て締め付けられる。

(若様…思い出しちまったんだろうか…)

相変わらずスピードは緩めないが、サムの思考は遠い過去へと遡った。


かつて現実世界へ侵出しようとした時に、精神世界の者たちを統率し導いた者たちがいる。
それが、現在の一区から十五区までに存在する、悪魔の貴族たちである。
彼らは収容された後も、他の悪魔から絶大な支持を受け、収容区内でその力を発揮する。
現在、それなりに大人しくしているのも、当時の彼らの意向による。
一声掛ければ、すぐさまミュステリオンであれ陥落させることも不可能ではない。
ただ、今は鳴りを潜めているにすぎないのだ。

区によっては、今の体制に不満を持つ者も、少なくはない。
そうした者たちは絶えることなく現れ、それらを抹殺すべくミュステリオンが動く。
これが、現在のミュステリオンと悪魔街の関係であり、ぎりぎり均衡を保っている状態なのだ。

ところで、七区は対して目立った暴動などはない。
かつて、マルコスの父親が殺されたこと以外は。

(……あの日も、こんなだったな…)

その日も、今日のように聖裁に訪れた神父がいた。
もちろん、全異端管理局の人間で、エリシア並に凶暴な性格の持ち主だった。
その内、やはり理不尽な理由で悪魔と戦闘を繰り広げていた時だった。
運悪く、その神父に致命傷を負わせてしまったのだ。
その場に居合わせたもう一人の神父により、悪魔は息の根を止められた。
だがそれだけで、ミュステリオンが黙っているはずない。

七区を統べる貴族の当主、カサルスの首を差し出すよう要求してきたのだ。
さもなくば、七区全ての悪魔を抹消というおまけつきで。

選択などなかった、カサルスは要求を飲んだのだ──自分の首を差し出すと。
このカサルスこそが、マルコスの父親である。

サムは覚えている。
あの日、嫌がるまだ幼かったマルコスを、必死に引き止めて、カサルスを見送った時のこと。
彼は、自分と同じ柔らかな金髪を一撫でし、「サムやジュードたちの言うことをちゃんと聞くんだよ」と言い残し、屋敷を後にした。
七区の悪魔たちはカサルスの死を悼み、残されたマルコスを守り抜くことを誓った。


…耳を澄ませば、微かに鼻を啜る音が鼓膜を叩いた。
サムは顔を歪め、その音を頭の中から追い出すべく、運転に集中しようとした時だった。
目の前を、何かが横切ろうとしているのが目に飛び込んできたのだ。

「っ!やべっ…!!」

さぁっと一気に血の気が引き、彼は思い切りブレーキを踏み込んだ。
煉瓦に黒い直線がついたのでは、と思うほどの音を立てて、車体は急停止した。

「サ、サム…なに?どうし…あれ?」

それまで黙ったままだったマルコスも、急に勢いが止まってしまったことに驚き、何があったのかと声をかけた。
が、言葉が終わらぬうちに異変に気が付く。
フロントガラスの向こう、二本の棒がボンネットの上に立っている。
否、棒ではない…足だ。

「車、ねぇ…ってこ…はー、君は七区…貴族、な…かな?」

くぐもって聞き取りにくいがどうやら、こちらが貴族であるということに気付いたらしい。
サムはマルコスに隠れるように耳打ちし、次の相手の行動を待つ。
あれだけ速いスピードを出していた自動車を、簡単に避けた者である、ただ者ではない。
サムは隠し持っていた銃のセーフティを外し、息を殺して時を待った。