女神の悲鳴と同時に、多くのことがその場で起こった。
まず、入口付近にあったそれらは、光の速さで飛び込んできたJにより蹴散らされた。
べしゃりと水風船が割れた音が立て続けに幾つも沸き起こる。
二度と蘇らないように、執拗に、あるいは異常なまでに、蹴りつけ殴りつけ踏みつけていた。
その一方で、アキに襲いかかろうとしていたそれは、突如部屋の中央に現れた黒い影に瞬く間に飲み込まれる。
室内を占拠した白がなくなり、元のスタッフルームが現れた。
「危機一髪、だったようだね」
黒い影は一度身震いすると、たちまち儀式屋その人へと変貌した。
彼はついでとばかりに、Jが始末したそれに手をかざし、跡形もなく床から取り去った。
死屍累々となっていた廊下が元の木目を取り戻したことで、Jは攻撃を止める。
ふぅ、と息を長く吐くと、彼は黄金の瞳を不愉快そうに細め、店の主へ向けた。
「色々まずいことになった」
「ふむ、そのようだね。後で報告をもらうよ」
そう告げると、儀式屋は鏡に豊かな金糸のみを映し出している美女へ近付いた。
なんの抵抗もなく鏡に手を差し込み、彼女の頭を柔く撫でた。
「アリア、もう顔を上げたまえ。アキは無事だ」
「……駄目よ、顔が酷いもの」
「おやおや、ならベールを掛けておこうか」
薄ら笑いを深めて告げると、アリアは微かに首を縦に振った。
儀式屋はその通りにしてやると、さて、とJを振り返った。
「私がいない間に何がどうなったのか、聞かせてもらえるかね」
「……儀式屋、フェイって悪魔は知り合い?」
規則正しく呼吸するアキを眺めつつ、Jはまず彼にそう尋ねた。
ふむ、と儀式屋は顎に指をあてがい思案する。
「……面識がないね」
「そ。まぁそいつが店のドアノブ破壊してってさ、だからあの出来損ないが入ってきたわけ」
「破壊して、ということはその悪魔は実体ではないのだね」
「ああ…で、さっきまでそいつを追ってたんだけど、上手くはぐらかされてね……」
そこまで言うと、ややJは口惜しそうに唇を噛んだ。
思い出しただけでも、怒りの感情が体を突き上げてくる。
今、その相手がいたら、間違いなく叩きのめしている自信がある。
「その怒りは、次に出会った時に爆発させたまえよ」
Jの心を見透かしたように儀式屋は発言し、そのまま続けた。
「ふむ……まずは、結界をかけ直さなければ、だね」
言ったと同時に、すっと儀式屋の姿が消失した。
そしてものの数秒で、彼は再び戻ってきた。
Jは何度か目を瞬かせた後、訝しそうに儀式屋を見やった。
「……もう終わり?」
「勿論。綻びを縫い合わせるだけだからね。しかし驚いたね、何という憎悪で突き破ったんだか」
と、彼は病的に白い己の手のひらを開閉させた。
表情には全く驚きの欠片も見当たらなかったが、Jが把手から感じ取ったものを彼も体験したのは間違いなかった。
Jはソファの背もたれに腰掛け、儀式屋に問う。
「追う?」
「……いや、今回は見逃そう」
「っ、本気?」
「ああ、何、もう一度向こうから接触してくるだろうからね」
「邪魔な芽は摘むべきだと、俺は思うけどね」
やや語気も荒く答えたが、逆らう気はないらしかった。
それが分かっているのか、儀式屋はくくっと喉を鳴らし笑った。
「本当に君は血気盛んな男だね」
「あんたが気ままに構えすぎなんだ」
「あら、私は儀式屋に賛成よ」
重低音の中に、高く涼やかな声が入り込んだ。
おや、と儀式屋は声の聞こえた鏡に近付いた。
そっとベールを捲りながら、
「もういいのかな?」
「えぇ」
許可の言葉に儀式屋は、ベールを取り除いた。
現れたのは、いつも通りの明るい女神の笑顔だ。
その笑顔に少し安堵を覚えながらも、Jはむっとした顔を向けた。
「ほんっと、アリアってば儀式屋に甘いんだから」
「あら、今回はただ甘いだけじゃないのよ」
そう言い終わる頃には、笑顔の代わりに真剣な──それでいて悲しみも称えたものがあった。
更にアリアに食いかかろうと思っていたJは、その変化に口を噤み、眉根を寄せた。