「Jさん、あの…」
「俺の肩、踏み台にして上れるなら上って」
「…、はい」

言わんとしたことを先回りに言われ、少年は一瞬言葉に詰まったあと、許可された内容を実行に移した。
マルコスの足がJの肩を土台として立ち上がると、不安定ながらも上体が縁に届く。
空洞は本当にマルコス一人が這って通れるくらいの幅で、奥行きもそんなにない。
此処まで来れば、向こうも確認できそうだ。

「すみません、Jさん。何とかいけました」
「そこから外には出れそう?」
「そうですね…この金網が外れれば…」

空洞だと思っていたがどうやら通気孔だったらしく、奥の方に金網が嵌め込まれている。
金網は直接石壁に溶接されているのではなく、金属の枠に収まっており、手で揺すれば僅かな遊びがある。
力任せに揺さぶり続けると、がくんと枠が外れた。
更に身を通気孔の向こうへ進め外へ顔を出せば、同じような石造りの廊下が奥へと延びていた。
人っ子一人おらず、冬の訪れのように暗く静かな廊下である。
その静寂が不気味すぎて、マルコスは固唾を飲む。
一呼吸おいてから、ゆっくり少年は視線を下へ向けた。
冷たい灰色の地面が、いつ飛び降りるのかと待ち構えている。
高さはJに肩車をしてもらった程度と同じだろう。
よし、と意気込みマルコスは人がいないことを確認してから、前へと身を乗り出した。

「うわっ…!!」

そのまま這いずって心太のように出たものだから、強かに少年は地面に衝突した。
一瞬、とんでもない衝撃が全身を貫き、マルコスは地面に踞る。

「坊ちゃん、大丈夫?」
「……ひとまず生きてます」

頭から落ちたものの、幸い出血していないらしいのを確認して、マルコスは自分がこんな思いまでして成し遂げるべき業務を思い出す。
落ちた通気孔の下、自分たちが閉じ込められていた部屋を繋ぐ扉に視線を向ける。
内側と同じように無機質な扉であるが、ひとつ違うとすれば、外側には閂があることだ。
それを一思いにマルコスはスライドさせた。
がこん、と重たい音がして、扉はマルコスの側へ開かれた。
待ってましたとばかりに、ニヤニヤと笑いながらJがマルコスのサーベル片手に現れた。
それを手渡しながら、彼は礼を述べた。

「ありがと、坊ちゃん」
「いえ、全然。それよりJさん、何でさっきあんなに慌てたんですか」

マルコスの言う“さっき”が指す対象がわかったのか、Jは若干嫌そうな表情になった。

「…あー、うん。ミュステリオン様の…しかも全異端管理局のお出ましだったから、ちょっとね」
「!!全異端管理局…!?」

マルコスは心臓を氷付けにされたかのように、一気に血の気が引いてしまった。
ミュステリオンの中でも、とりわけ狂暴な猛者が勢揃いの部署であり、何より七区にとってはトラウマ以外の何物でもない。
少年当主が顔色を悪くした理由とは別に、Jの表情は今やしかめっ面に変化していた。
この後に起きるだろうことについて、考えを巡らせていたせいだ。
悪魔があれほど断末魔に近い絶叫を迸らせるのは、全異端管理局の神父かシスターが攻撃したときだと、Jは気付いていた。
全異端管理局が動き出したということは、直に聖裁が行われる可能性が高いことを意味している。
早々に二区自体から抜け出さなければ、巻き込まれるかもしれない。
予想はしていたが、こんなに早く動き出したのは、少し計算外だった。
最初に侵入した時にいたあの神父たちが応援を頼んだとして、全異端管理局の力を借りるとした決定打はなんだったのか。

(まさか正体がバレた訳じゃああるまいし…)
「Jさん、本当に大丈夫でしょうか…」

か細い声が鼓膜を叩き、内側に向いていた意識を背後のマルコスへ向けた。
不安そうな雰囲気を感じ取り、彼はあえて笑ってみせた。

「…恐らく、あの部屋にまでは辿り着くだろうけど、この抜け道に気付くのには時間が掛かるだろうね」
「それじゃあ…」
「でも、相手は全異端管理局だ。気は抜けない。さっさと此処を抜けて、外の様子を確認しよう」
「はい」

素直に頷くマルコスにJは一つ首肯してみせ、閂を再び扉に施し、さっと廊下を確認する。
ここが最奥らしく、道は目の前にしか続いていない。
後退は絶対に許されないことから、二人は自然とひとつしかない選択肢に従った。
先の牢獄もそうだったが、窓がほとんどないため、行き先は闇の中に沈んでいる。
足元から冷気が絡み付き、一歩一歩前進する足を行くなと引き留めようとする。
この先に自分たちの望むような結末が、必ずしも待っている訳ではないと、頭のどこかで思っているからか。
妙に感覚が研ぎ澄まされ、物音ひとつにさえ敏感に反応してしまう。
恐怖はない、だが、全身を緊張感が蝕んでいく。

「!」

突如左胸を貫いた振動に、Jは一瞬思考が停止した。
次いで、その原因を取り出し、俄に吸血鬼は、表情を凍てつかせた。

「Jさん…?」

立ち止まったJに不振を抱き、マルコスはその手に握られた機械を覗き込む。
あの屋敷で最初に対峙した悪魔から拝借した通信機で、そのまま持ってきたのだろう。
ディスプレイに写し出された文字を理解したとき、マルコスは同じように固まってしまった。

『スグ、ソコへ、イク』

シンプルなメッセージでありながら、今の二人には充分恐怖を感じさせるものだった。