「……っ!?」

ばちん、と雷に打たれたような衝撃があり、ヤスの意識は世界に戻ってきた。
気付けば彼は地面に倒れ伏しており、徐々に自分が何者であり、何が起きたのかを思い出す。
大量に頭に流れ込んだ意識が、深く深く、自分の中に植え付けられる。
生々しいほどに生々しい、人間だった物の記憶の追体験。
これが、無関係の人間だったなら、どれ程良かっただろう?
出来ることなら、一生知りたくなかった。
だってこれは、この記憶は、自分がこの世界に縛り付けられた、呪いの元凶の記憶なのだから。
それでいて──一生、自分が赦されない、過ちだ。

「──ご主人様から、伝言だ」
「!」

己の頭上から聞こえる、酷く感情を欠いた声に、ヤスは心底驚いた。
起き上がって振り返れば、ヤスもよく知る人物がすぐ側にしゃがみ込んでいた。
呻くように、ヤスは名を口にした。

「アイリーン…!」

暗闇の中、金の髪の少女が、無表情にそこにいた。
ヤスは、少女をよく知っている。
白い魔法使いの、メイドの一人であり、一時は毎日のように顔を合わせた“同類”だ。
アイリーンは、その愛らしい顔のまま“ご主人様”と呼ぶあの魔術師の声音で伝言を伝える。

「“懐かしいな、あの嘘吐き魔女。僕を好きだと言ってくれたっけ”」
「……っ、あんた、なんで」
「“僕と剣士クンが蜜月になったばかりに、あの子は復讐の魔女になってしまったねぇ”」
「違う…ユメは、違う…」
「“でも、君は違うというのかな?残念、違わないよ。だって僕から剣士クンを奪ったんだ…復讐以外の何でもないよ”」

まるでヤスの反応が見えているかのようで、先回りした言葉が、彼に絡み付く。
目の前にはいないのに、目を閉じれば、すぐそこにいるようで、ヤスの神経がざわつく。
思わず耳を塞ごうとしたが、アイリーンの細い腕が伸びて、ヤスの行動を制御する。
笑わない瞳が、ヤスとかっちりと視線を絡ませる。
何かの罠にかかったかのように、彼は動きが止まってしまった。

「“でも、僕は優しいから、もう、過去のことは水に流すよ!そして、君にいいことをしてあげる”」
「いらないっ、あんたからの、いいことは、いらないっ!」
「“嫌がったって無駄だよ?これは、魔術師の絶対預言…君は、断れない”」
「!」
「“何故なら、優しい僕は、この復讐の魔女を、蘇らせて、君と一緒に現実世界に還してあげることにしたからさ”」
「……はっ?」

無表情のその向こうに、屈託のない笑顔で告げる魔術師が、一瞬、ヤスには見えた。
ざわっと、ヤスの中の何かが蠢き、不安な気持ちにさせる。
直感でわかる、サンは本気なのだ。
だが、その甘言に、乗ってはならない。

「嘘だ…そんなことないっ」
「“君は嘘だと言うかな?それもそうだね、僕が君を帰してあげなかったのは事実だし…でも、復讐の魔女をあれにしたのは、僕じゃないよ?君も、わかっているだろう?”」
「っ!」
「“全ての元凶は、儀式屋クンだよ?”」
「黙れっ!」

アイリーンの手を振りほどくと、勢いよく剣を振り抜いて少女の白い喉へ突き付けた。
もしも彼に常識がなかったら、恐らく、そのまま突き殺していたに違いない。
そのくらい、今の彼は荒ぶっている。
夜の闇が広がる世界で、たった二人、どちらも動かずに、様子を伺っている。
無表情にヤスを硝子のような瞳に写していた少女は、ゆっくりと口を開いた。

「“僕はいつでも待ってるよ。君の答えは、僕にはわかっている”」
「黙れ…黙らないと、この子の首を刎ねるぞ、魔術師!」
「“さぁ、帰ろうか、アイリーン。そろそろ剣士クンが怒りの頂点に達する頃だろう”……はい、ご主人様」

突如、子どものようなサンの声から、少女特有の愛らしい声に切り替わる。
急な変わり身にヤスが面食らっている間に、メイド服の裾を払って立ち上がると、少女はヤスに丁寧にお辞儀をする。
そこに、少女の意思は一切介在していない。
ただそうするように、サンに命じられただけだ。
それが痛いほど分かるヤスは、悔しそうに顔を歪めながら、僅かに剣を遠ざける。
それを確認してから、アイリーンはくるりと踵を返して歩き出す。
そのまま闇に溶けていくかに思われたが、少し離れた位置でぴたりと立ち止まる。
何故だろう、ヤスはとてつもなく胸騒ぎを覚えた。
今以上の不愉快なんて、何一つ思い付きそうにもないのに。
だが、振り返った少女を目に映したとき、ヤスは自分の考えが甘すぎたことに衝撃を受けた。

「“それまで、復讐の魔女は、僕が預かるよ、ヤス”」

サンそっくりの、人を苛つかせるような笑顔で、その手にユメの真っ白い首を抱えたアイリーンが、そう告げた。
刹那、ヤスの中で感情が爆発した。

「ユメぇええ…!」

喉が張り裂ける程の叫びが、暗闇の世界に轟いた。




(……ここは、)

自らの幻影を窓の外に見たとき、アキはそれがこうなる前の自分だと気付いていた。
あの、最強に最凶で、至上最低最悪な時代の自分だ。
ならば、倒すより他ない。
というのが、アキという男の思考回路だった。
単純にして短絡的、明快にして豪快であり、そこがよくも悪くも、アキらしさだった。
そんなだから、即刻飛び出したのであるが、『儀式屋』から出た途端、彼は違和感を覚えた。
『儀式屋』から出た場合、そこには通常、だだっ広い空き地がある。
建物なんてのは、少なくとも視界で捉えられる範囲では、歩いて10分はかかるだろう。
なのに、今、アキが立つ此処は、周囲に住居が建ち並び、見上げれば自分たちを見下ろすように聳え立つ威圧感のある塔が見える──要するに、悪魔街のど真ん中なのだ。
喧騒は遠くに聞こえるから、恐らくは聖裁中だろう。
そこまでは、アキも容易く理解できた。
だが、たったひとつだけ、理解できないものがあった。
目の前には機械のように冷たい面差しの神父がいて、彼はアキに向けて──否、アキの腹部にハルバードを突き刺さしている。
貫通はしていないようだが、おびただしい血が傷口から溢れている。
意識を向けた途端に、痛みが脳へと到達する。
痛い──だけどその痛みすら、自分を覚醒させるものにすぎない。
通常なら、致命傷とも言うべきレベルだ。
だが、この程度なら大したことはない。
そう思える辺りが、自分の犯した罪の代償なのだろうけれど。

「──これでも、貴方は死なないのですか」

機械音声そのものの声音で、神父が──アンリが尋ねた。
これが幻影なのだとしても、本当に鮮明な再現である。
アキは何と答えたものかと思考しかけたが、それより早く口が動き出した。

「むしろ、気持ちぃくらいに、目ぇ覚めたわ」

違う。
そんなこと、ほんの少しも思っていない。
だが、アキの意思とは関係なく、アキの口は勝手にそう動いた。
アンリの表情が、俄に厳しくなる。

「…やはり、貴方は狂っている」
「狂ってる?いいや違うね。俺は理想を追い求めた…それだけだ」
「それが、どれ程の犠牲を払ったのか、貴方は理解しているのですか?」

言いながら、アンリは更に刃をアキの内部に突き刺す。
余計に傷口が広がり、普通なら膝をついて命乞いをする。
だが、アキはそんなつもりは毛頭ない。
いや、正しくはこの時の“アキ”は、間違いなく、そうだ。