マルコスは決して気を違えた訳ではないし、何も考えずに言った訳でもない。
真面目に、一人の悪魔貴族の長として、Jに交渉しているのだ。
何が彼を突き動かしたのだろう──同族だからか、憐れみからか。
吸血鬼は暫しそのまま見つめていたが、やがて大きな溜息を吐き出した。
それをどう受け止めたのか、マルコスは不安そうに表情を強ばらせた。
が、それが杞憂であったというのは、Jがいきなりそのナイフを抜き去ったことで分かった。

「いいかい、坊ちゃん。何かあったら、今度は迷わずこいつの頭を真っ二つにするからね」
「!…分かりました」

ぶっきらぼうに彼は告げると、少しだけ後ずさった。
マルコスは頭を下げると、未だに手から発する痛みが引かないであろう悪魔の側へ跪いた。
ふわりと空気が動いたことに気付き、悪魔は寝転んだまま少年へ顔だけを向けた。
警戒するように、厳しい眼差しがマルコスに突き刺さるが、それをしっかり受け止めて、少年は口を開いた。

「僕は、マルコス・ルシフォード。第七区の現当主です」
「……七区の当主、だと?」

声に、僅かに驚きの色が混ざった。
当然だろう、他区の一般的な悪魔ならばともかく、貴族のそれも当主がこんな場にいるなど、誰も考えつかない。
悪魔は、しかし眉間に彫像とも思える程の深い皺を刻み、益々厳格そうな表情になった。

「貴殿の先代は、カサルス殿だったか」
「父をご存知ですか」
「無論、存じている。先のことは、大変残念であった」

しかし、と悪魔は続ける。

「あれを契機に、我々は益々ミュステリオンを倒すべく思いを強くしたものだ」
「そ……それは、どういう意味ですか」
「カサルス殿は我々と違い現状維持を訴え続けたが、結果は貴殿も知っての通りだ。即ち、ミュステリオンとこれ以上の共存は不可能であり、我々革命派こそが今求められている。それを全区に知らしめるためのよい機会になったというわけだ」
「貴方は……いいえ、貴方がた革命派は、我が父の死をそのように捉えていらっしゃるのですか!」

隣でその応酬を静観していたJは、いきなりマルコスが大声で怒鳴ったことに驚いた。
見た目はいかにも弱々しいのに、この反撃は意外だったのだ。
だが、至極真っ当な反論だろう。
誰だって、自分の身内をそんな望んでもいないことの契機とされて、怒らないはずがない。
マルコスは固く握った拳を震わせながら、舌鋒鋭く悪魔へ言葉を叩き付ける。

「我が父カサルスがあのような粛正を受けたからこそ、平和的な解決を模索すべきと思わなかったのですか!」
「笑止千万!生温いお考えであられるな、現当主殿は。粛正を受けたからこそ、ミュステリオンとの共存は不可能だと証明されたのだ。だから、我々は真の支配者としてその王座を奪還せねばならぬのだ」
「いいえ、違います。力を持って刃向かえば、必ず力によって滅ぼされます。貴方だって、本当は分かっていらっしゃるはずです!」
「分かっているとも。だが、この五百年、ミュステリオンは虚仮威しの聖裁ばかりだ。その間に、我々はただ指をくわえて見ていたわけではない。十六区の英霊たちは、二十年前に何をした?彼らは命を賭して我々に、展望を示したのだ」

二十年前と言われ、Jもその頃を思い出す。
十六区の反乱は、近年の精神世界においては重大な事件だった。
だが、ミュステリオン側にとってだけではなく、『儀式屋』にとってもそうだったのである。
そしてそれは、今日まで続いており、未だに解決には至っていない。
もう一度、二十年前同様の事件が起こるようであれば、一気に解決の道は閉ざされ、代わりに崩壊への道を突き進むしかなくなるのだ。
だから、食い止めるために、何としても悪魔に秘密を話してもらわねばならない。

「展望?あの反乱のせいで、我々の自由は益々奪われたではありませんか。いったい何処に、明るい未来が見えたというのですか」
「現状維持しか頭にない貴殿らには、わかるまい。最早恐れるべきものがない我々は、突き進むのみだ!」
「っ!?」

それは、一瞬の出来事だった。
悪魔が跳ね起きマルコスに手をかけようとしたのを、後方で見守っていたJが即座に反応して、持っていたナイフをその額に投擲したのである。