「…此処にもいねぇな」
『あらあら、本当に?』
「だが、俺の見える範囲での話だ。まだ奥がある」

一般的な応接間から続く扉を見つけ、それに向かってずんずん歩いていく。
近付くにつれ、意味ありげに半開きであることに気付き、担いだ機関銃を手に持ち直す。
銃口を扉に引っ掛け、呼吸を整えると一思いに引き開けた。

「!」

入ったのはベッドルーム、やけに原色が多く使われた部屋で、色の洪水に一瞬目が眩む。
アレックスはその中で目を凝らし、異常がないかを確認する。
暗鬱な緑のベッド、嫉妬の炎のような赤いチェスト。
派手なピンクの壁を辿り、悪魔の瞳と同色のひらひらとはためくカーテンが目に留まった時、アレックスは異変に気付いた。
カーテンを一思いに引けば、外へと開け放たれた窓から夏の乾いた風が頬を掠めた。
神父は身を乗り出して周囲を見渡し、遠くに広がる悪魔街を一瞥した。
からりと晴れ上がった雲一つない空の下、死んだような静けさだけが漂う世界。
アレックスはそんな世界を一通り見渡して、何かを決めたかのようにふっと笑った。

「……ユーリ」
『なぁに?』
「手遅れだ」

彼の呟いた言葉自体は自分の敗北を認めるものであるのに、何故笑っているのだろう。
その理由なら、至極簡単だ。
アレックスはすっと息を吸い込むと、ピンバッジを手繰り寄せ、耳を澄ませているだろうユーリに宣言した。

「これより全異端管理局による、聖裁を開始する!」





「なに、此処?」

扉から這い出たJは、目の前に広がる景色を目にして、開口一番そう漏らした。

あの部屋から脱出する直前に聞こえた悲鳴、それから銃声に、吸血鬼はそれまでの余裕面を引っ込め、何も言わず少年悪魔の手を引いた。
そして、当主の寝室まで戻ってくると、額縁が外れてぽっかりと穴の空いた壁に、急げの号令と共にマルコスは押し込まれた。
額縁の裏は下り階段が何処までも続いており、明かりがないためひどく暗かった。
人一人分しか通れない階段で、下から吹き上げる風は、湿り気を帯びている。
天井はJが真っ直ぐ立つと頭を擦りそうな程に低く、窮屈さを強いられる。
まるで地獄へと自ら下るような気持ちになりながら、Jとマルコスは何も言わずひたすら階段を降りた。
ますますじめっとした空気に息苦しささえ感じた頃、前に出した足は次の段差を踏まなかった。
だが、そこで行き止まりという訳ではなく、真っ直ぐに道は続いているようだった。
一瞬マルコスはJを振り返ったが、Jはひとつ首を縦に振るだけだった。
身体にまとわりつくような闇を振り払うように、立ち止まることなく走り続けて、徐々に勾配が上がり、空気の層が変化していく。
そうしてとうとう行き止まりまで二人は辿り着き、屈まなければ通れない程の小さな扉を押し開いて──

「牢獄…でしょうか」

先に抜け出ていたマルコスが、丁寧にJの疑問に回答した。
マルコスが言う通り、薄暗い通路を抜けた先の部屋は、冷たい石造りの床と壁、それから鉄格子に阻まれたそこは、牢獄のようだった。
その隅に誂えられた木戸から、二人は出てきたのだ。
服の裾についた埃を払いながら、吸血鬼は周囲を観察した。
入口は自分たちが今出てきた扉と、鉄格子の扉。
鉄格子の扉はきちんと閉じられていないため、鍵は掛かっていないようだ。
室内は簡易なベッドと机があり、うっすらと埃を被っている。
長らく本来の用途としては、使用されていないらしい。
廊下へ目を転じれば、同じような部屋が向かいにある。
無人のそこは、こちらと似たような造りではあるが、確認できる範囲では、小さい木戸はない。
そんな部屋が、あともうひとつ斜向かいにあり、ということは今いる部屋の隣にもあるのだろう。
その奥は壁になっており、行き止まりである。
そちらとは正反対に顔を向けると、上の階へ続く階段があった。

「…とりあえず、行くしかないね」
「そうですね」

お互いの意志が共有されたところで、冷たく金属的な音を立てる扉を押し開き、牢獄から脱出する。
廊下に出てみれば、思った通りこのフロアには牢獄が4つあり、二人が最初にいた牢獄だけが、やはり外部への脱出口があるらしい。
本来の目的としての使用は、カモフラージュなのか。
だとしたら、この場所は一体なんなのだろうか。

(今は考えるな、とにかく脱出だ)

氷のように冷えきった廊下を足早に通り抜け、上階へと続く短い階段を駆け上る。
一番上のステップにまで辿り着くと、頑丈そうな鉄扉が行く手を塞いでいた。
内側に把手はなく、無機質な面を見せているだけだ。
試しにJは押してみたが、開きそうな気配はない。
舌打ちして、彼は何か手掛かりがないかと周囲を観察する。
眼前にはすきま風すら許さないくらいに、ぴったりと閉まった鉄扉。
足元は石造りの階段で、何処にも抜け道はありそうにない。
左右を見渡したところで、同じように冷え冷えとした壁があるだけだ。
さて、どうしたものかと仰ぎ見た時、Jの金瞳が煌めいた。

「…あ、あった」
「え、何がですか?」
「坊ちゃん、高いとこは平気?」
「まぁ、多少は」
「んじゃあさ、今から俺が肩車するから、あそこから外に出て」
「……はい?」

やたらニヤニヤと悪巧みをしていそうな表情に、マルコスは思いきり警戒心剥き出しの態度で一歩引いた。
一歩引きつつも、Jが指し示す方向を見やった。
鉄扉の上方に、小さいながらも空洞のようなものがあるのが確認できた。
ちょうど、マルコスくらいの小柄な体格の者なら、通り抜けられそうだ。
しかし、マルコスはもとよりJですら届かない程の高所にあるため、どういった目的でそこに設計されたのかは不明である。
ひとまず意図を理解した少年当主は、再度吸血鬼へ視線を向けた。
Jはいつの間にかしゃがみこみ、乗れと言わんばかりにマルコスを見つめている。

「…どうしても僕ですか?」
「俺が乗ったら潰れるよ?」
「そりゃそうですけど…じゃなくって、Jさんならこう、ジャンプして届くんじゃないですか?」
「俺はしがない吸血鬼ですから、そんな脚力ありません」
「………わかりました、乗りますよ」

喉元まで出かかった言葉を変換するのに、マルコスは相当苦労した。
此処で彼の言葉をいちいち拾っていては、先へ進まないことを、マルコスは充分学習している。
ひとまず抜き身のサーベルを地に置き、代わりに大人しくしゃがみこむ彼の肩に足をかけ、支えとして派手な頭に手を添えた。
Jはしっかりとマルコスの足を持ち立ち上がった。
ぐっとマルコスの視線は、いつもよりも高い位置へ上がり、先刻確認した空洞が見えた。

「どう、届きそう?」
「何とか…」

指先を縁にかけて、少し体を持ち上げる。
そのまま上体を腕の力で引き上げようとするが、マルコスの力では支えきれそうにない。