そして、ずっと側に突っ立ったまま放心している男の背を叩いた。
驚き声を上げるヤスを叱責して、アンソニーは二人を館の外へと促した。
最前まで壁だったはずの箇所に大きな穴が空き、二人を外の世界へいざなう。
もうすっかり夜だった。
地平線に微かにオレンジの明かりが見えるが、それも瞬く間に消えるだろう。
女王の庭も、忘れ去られた寂れた街並みも、そしてアンソニーの館さえも、たちまち闇に飲み込まれてしまうのだ。
ユリアが数度瞬きしている間にも、夜の濃度はじわじわと増えていく。
ぼんやり外を眺めるユリアの耳元で、アンソニーはわざとらしくおどろおどろしい声で囁いた。

「夜は、陽の光の元に生きられぬ輩が現れる。暢気にしていると、すぐに喰われるぞ」

びくっと肩を跳ね上げて、若干青ざめた表情でアンソニーを振り返った。
見かねたヤスが、ユリアとアンソニーを引き離し、やや苛立たしげな口調でアンソニーに告げる。

「アンソニーさん!ユリアちゃんを怖がらせないで下さいっす!」
「何を言う、私はお嬢さんに警告しただけだ」
「その仕方が可笑しいっす!あーもう……ユリアちゃん、行くっすよ!」
「え?あ、はいっ」

ぐいっと手を掴まれて、肩を怒らせながら歩く彼に、追い付こうとユリアは小走りになる。
途中で一度だけアンソニーを振り返り、小さく頭を下げた。
館の主は同じような動作を返すと、小さく呟いた。

「無事を祈るよ」





──夜の匂いだ。
しんと静まり返った闇に、微かに呼吸する者の匂い。
それは日の光のもとでは、生きることが叶わない者たちの匂いだ。
それを何度も肺に取り込むと、自分がこの闇に取り込まれてしまうのではないかと錯覚を起こしてしまう。

(ま、350年もいりゃ慣れるけどね)

昼間は生命の象徴とも言える太陽の瞳は、今は月明かりの色を模している。
だが、この世界には月はないし、星もない。
精神世界が現実世界の鏡ならば、何故太陽はあっても月や星はないのか。
いつだったか、Jは儀式屋に尋ねたことがあった。
儀式屋は、さらりと答えて見せた。

“ミュステリオンが台頭してくる以前、あれは月だった。月明かりだけの世界、ルールたる彼女はその頃の世界は誠に幻想的で美しかったとよくいうね。だが、ミュステリオンが現れたことで世界は変わった、そして月は人間が求めたことで太陽になったのだよ……ただし、あの太陽は人が勝手に太陽だと認識してるだけなのだ。だから、今も昔もそしてこれからも、あれは月なのだよ”

なるほどとJは納得した。
吸血鬼である自分は、本来ならこの太陽の光には打ち勝てないはずなのだ。
だが、この世界ではそんなことは関係なく、人間同様に生きられる。
ならばあれは、太陽なのではない、自分たちが勝手にそう思って作り出した、虚像なのだ。
たとえ現実世界を捨てても、生命の象徴ともいえるあれを、求めずにはいられないのだろう。
だからあれは生まれた、本質は月のままの太陽が。
今は闇に消えてしまっているが、ただ見えないだけでそこに確かに月はあるのだろう。

「しっかしまぁ、見つからないもんだね」

一通り闇に目配せしてみたものの、収穫はゼロだ。
これは、あの悪魔は召喚されたのだから、主人のいる現実世界に帰った、と見るのが妥当だろう。
もう、自分も帰った方がいいかもしれない。
いい加減、あの心配性の女神が首を長くして待ちわびている頃だ。
やれやれ、と首を振りながら引き返そうとした、時だった。

「……あんたらも飽きないね」

低い、地面に這いつくばるような声と共に、白い何かが、Jへと躍り掛かった。
それもたった一つだけではない、両の指は越える程の数だ。
だが、Jは焦ることなく、一番近くにやってきたそれを回し蹴りして地面に叩きつけた。
べしゃりと音を立てながら叩きつけられたそれは、零れた牛乳のように地面に広がると、それきり動かなかった。
Jはそれを見届ける間もなく、次に飛びかかって来たものに攻撃を加える。
今度は左の拳を真正面から叩き込む。
そのまま右から来たものには手刀を打ち込む。
べしゃり、べしゃりと静かな夜にその音だけが響き渡る。
やがてその音も消えた頃には、Jの周りだけが不自然なほどに真っ白で、暗闇の中で存在を放っていた。