七章§01

「──ユリア、何ぼーっとしてんのよっ」

つん、と頬を指でつつかれて、はっとユリアは意識を戻した。
意識が戻った途端に、それまで遮断していた外部情報が一気に五官へ流れ込んだ。
いつの間にか授業は終わっていて、クラスメートの明るい笑い声が鼓膜を刺激する。
当番が黒板を消し始め、窓が開いていたために夏の涼しい風と共に、チョークの粉をほんの少し吸い込んでしまって、ユリアは顔をしかめた。

「ほら、次の授業、移動するよっ」
「え、次って移動だっけ」
「何寝ぼけてんのよ、もう」

くすくすとアイカが笑い、彼女の隣にいたリサは半分呆れたように腰に手を当てている。
ユリアは二人を見ながら、少し照れ臭そうに笑った。
机の中に手を入れながら、次の授業に必要な教科書を探り出す。
アイカはユリアの机の上に座り、しばらくその様子を眺めていたが、思い出したように声を上げた。

「それでユリア、どうなったの?」
「……え?何が?」
「決まってんでしょ、笹川君とのことよ」
「っ、マサト!?」

思わず大きな声を出してしまったが、辺りを見回せば教室にはもうほとんど人がおらず、少しほっとした。
それから、ユリアはアイカを睨む。

「何もないしっ」
「嘘つきー見たんだからこないだ、ね、リサ」
「そうよ。二人でデートしてたじゃん」
「なっ……あれはデートじゃなくって、たまたま会っただけで…」
「あ、噂をしたら、笹川君だー」

ユリアがやや顔を赤らめつつ弁明をしていたが、それを華麗にリサは無視して廊下を指さした。
え、と思って見ると、本当にマサトが廊下を歩いている。
いつもつるんでいる友達と楽しそうに話していて、こちらには気付いていないようだ。

「でも意外だよね」
「……何が?」
「だから、ユリアと笹川君が仲良しってこと」

そのまま去っていく彼らを眺めつつ、アイカがしみじみと呟いた。
ユリアは溜息を一つ吐く。
この二人以外からもよくそう言われるので、慣れっこといえば慣れっこなのだが、あまり珍しがられるのも居心地が悪い。
いつものように、ユリアは決まりきった言葉を返す。

「……まぁ幼なじみだし、家も隣だし。そんなもんじゃないの」
「それを抜いても、よ。だいたい、見た目からして逆じゃん?」

準備をし終えてユリアは立ち上がりながら、友人二人の言葉に不満そうな眼差しを送る。
だってさ、とリサが答える。

「ユリアは髪普通の黒だし、化粧もしてないし見た目普通だし…何より、いい子ちゃんだし」
「笹川君は格好いいっちゃ格好いいけどさぁ……金髪だし、なんかピアスもしてるし…なんかたまに喧嘩してるじゃん。ほら、正反対!」

廊下を歩きながら得意げに言ってくるアイカとリサに、ユリアは少しむっとした。
二人とも、彼のことを何も分かっていない。
彼は、あんな見た目でも悪い奴なんかではないのだ。

「……マサトは…見た目は確かにああだけど…とっても不器用だし、人一倍お節介で…でも、そこがマサトらしいっていうか…」

言葉を選びながら、ユリアはそう語った。
見た目だけが、彼の全てではない。
あんな風な恰好をしていても、ふとした時に彼の内面は隠せなくて、滲み出てくる。
あんなだからなかなか気付かれないが、でも長い時間付き合えば分かるのだ。

「あーやだやだ、誰もそんなノロケなんか聞きたくないっての!」
「てかさぁ、それだけ笹川君のこと分かってながら、彼氏じゃないなんてよくいうわ」
「ってちょっと!二人がそういう話題を振ったんでしょ!?」

急にわざとらしく煙たがる友人二人に、ユリアはむっとして言い返した。
だが彼女たちはわびれた風もなく、したり顔で見てくるだけだ。
更に何か言ってやろうとしたところで、軽やかなチャイムの音が聞こえてきた。

「うわ、やばっ!」
「早く行かなきゃマジ怒られる!」
「ほらユリア、いつまでもそんな顔してないで走るよ!」

いまだに怒った顔をしていたユリアの肩をぽんと軽く叩くと、アイカとリサは走り出した。
もう、というようにユリアは吐息を一つ。
だが、その後には浮かんだのは微笑だった。
時にはふざけても、やはりこの二人は自分にはなくてはならない存在なのだ。
この二人がいるから、こうして日々を楽しく過ごせているようなものだ。
この二人をなくしてしまったら、きっと目の前は真っ暗だ。
だからユリアは、この二人が再び仲良くなってくれたのが嬉しかったし、この先もこのままの関係を守っていけたらいいな、とあの日を境に思い続けている。
……少女は微笑を深めると、先に進んだ大切な友人を追い掛けた。

七章§02

……そして少女は教室の扉を開けると、一瞬目が眩んだ。
カーテンが開けられているため、まだ強くないものの柔らかな日差しが目に飛び込んだせいだ。
徐々に視界を取り戻したユリアが見たものは、クラスメイトたちではなかった。

「おはようございます、ユリア様」

優しいアルトの声が耳朶を打った。
声の方を見やれば、亜麻色の髪を高い位置で髷を結わえた女性が立っていて、優しく微笑んでいた。
傍らには、ティーセットが載せられたワゴンがある。
彼女はティーポットから紅茶を注ぎいれている最中であった。
青磁のカップから立ち上る湯気と香りを吸い込んで、漸くユリアの意識は現実に焦点が合った。

「……ジェシカさん」

名を口にして、ここが何処だったのかを思い出す。
自分がいるのは、精神世界で、女王と言われる彼女の邸宅の一室だ。
今紅茶を注いでいる女性は、女王のメイドの一人だった。
つまり、あの光景は全て──夢。

「良い夢でもご覧になられてたのですか?」
「え?」

すっとソーサーに乗せられたカップが差し出されると同時に、そんな問いが投げかけられた。
受け取ろうとして、一瞬ユリアはその手を止めた。
ジェシカは、穏やかな口調で繰り返す。

「いえ、とても楽しそうなお顔でお休みなされていましたので」
「……えぇ…現実世界にいた頃の…友達との夢を見てたんです」

もう今は会えないけれど、とは言わなかった。
言ってしまうと、気持ちが何処かへ引きずり込まれてしまう気がしたのだ。
あの夢と、今の自分の境遇が雲泥の差であると、再認識したくなかったせいも、あるだろう。
……『儀式屋』からこちらに移って、もう三日目を迎えた。
本当に呆気なく、特に何を言うでもなく主に送り出された。
ただ一言、私がいいと言うまでそこで待機するように、とだけ。
こんなにも目に見える除け者扱いを受けるなんて、ユリアは思ってもみなかった。
そう考えると、一体何故、儀式屋は自分を手元に置こうと考えたのかという疑問に行き着く。
本当に必要なのか、持て余してしまっているのではないのか。
いつだったか、アンソニーが言っていたように、ただの儀式屋の暇つぶしの要員なのではないか。
そんなことをあの日からずっと考えていて、ユリアの気持ちは沈んだままだった。
そこにきて、今日の夢。
打撃は強く、錘を付けられたかのように、ますます沈み込んだ。

「そうでございましたか」

ジェシカは変わらぬ口調で、そう告げた。
それからどうぞ、と手付かずのままの紅茶を差し出した。
目覚めの紅茶-アーリーモーニングティー-というそれは、ユリアの習慣にはないものだった。
ジェシカ曰わく、女王たる彼女がユリアにも自分と同じ待遇をさせるように命じたそうだ。
カップに口を付けて、一口。
元々柔らかな香りが立ち上っていたが、ミルクを入れたことでよりまろやかな風味がふわりと口内に広がり、ほんの少し、それがユリアの気持ちも軽くさせた。
ジェシカの淹れる紅茶は、本当に素晴らしいものだ。
もう一口飲んで、ユリアはほぅっと息をついた。
温かい気持ちになって、先ほどまで心を占めていた暗い気持ちが、じわじわと払拭されていく。
何かおまじないでもかけられているのかと思うほどだ。

「美味しい……」
「アッサムティーと申しまして、陛下はこの香りといい色艶といい一番お気に召されている茶葉でございます」
「へぇ……茶葉から、ですよね?」
「えぇ、もちろんですよ」
「すごいです……難しくないんですか?」

そう尋ねられたメイドは、やや困ったような笑みをみせた。

「紅茶を茶葉で淹れる作法でしたら、ユリア様でもすぐにお出来になりますよ」
「え、そうですか?」
「えぇ。ですが、本当に美味しい紅茶を淹れられるのは、リヒャルトさんだけですわ」

ジェシカはリヒャルトの名を口にしながら、肩をすくめた。
何故?とユリアは首を傾げる。

「私でも、未だにあの人の紅茶にはかないません。あの方にお仕えして5年になりますが……まだまだ、遠く及びませんわ」

ほんの少し悔しそうな響きが語尾に宿ったが、しかし彼を心底尊敬しているという気持ちも、そこには込められていた。

七章§03

「リヒャルトさんって、凄い方なんですね……やっぱり、元々完璧な人だったんですか」

ジェシカの尊敬の意が籠もった言葉を聞いて、ユリアはそう返した。
が、ジェシカはくすっと笑い、首を横に振った。

「確かに凄い人だとは思います。ですが、最初からそうではなかったみたいですよ」
「え……」
「詳しくは本人にお聞き下さいませ。これ以上言ってしまうと、私が彼に怒られてしまいますので」

ふわりと微笑むと、彼女はそれきりその話題をしなかった。
その後はジェシカはユリアの着替えを用意し(今日はモスグリーンを基調にしたストライプ柄で、パフスリーブのワンピースだ)、朝食の準備が整っていることを告げると退室した。





「ユリアはどう?」

紅茶の柔らかな香りを楽しみながら、女王たる彼女は執事に尋ねた。
彼女の部屋に摘みたての花をいけていた白髪の執事は振り返り、ほんの眉尻を下げて答えた。

「……まだもう少し、落ち着かれてはおられないと思います」
「可哀相な子。あの人はユリアから全てを奪って、まだ取り上げようとするのですわ」

女王は眉を潜めて、温かな紅茶とは真逆の、冷たい響きを持った声を放った。
その矛先は、今はこの場にいないユリアの雇い主に対してで、珍しく彼女は彼に腹を立てていた。
理由は簡単だ、ユリアを虐げるような扱いをしたからだ。
女王にとって少女は、この世にまたとない宝石のような大切な存在だった。
その少女が常に自分の手元にいるのは、とても気分が良かった。
が、来た理由があまりにもあんまりな内容だったため、彼女は頭に来てしまったのである。

「人はね、リヒャルト、誰かに必要とされるから生きていられるものよ。あの子は現実世界に二度と戻れない選択をした、だからもう、あの人の店しかないの。なのにそれすら奪われたら、あの子はどう生きればいいの?」
「……あの方もお考えがあってのことと、私は思いますが」
「えぇ、えぇそうよ。その通りよリヒャルト。彼はいつだって最良の選択をしてきましたわ。ですけれども、それは誰のため?全ては彼自身のためですわ、一度だって誰かのための選択はしていませんのよ」

きっぱりと言い切って、彼女は紅茶を一口呷った。
やや冷めて苦味が増したそれに、顔をしかめる。
儀式屋が今日に至るまでしてきたことを、彼女は全て知っている。
それこそ、“何もかも”だ。

「魔術師はよく彼を優しくないと形容しますけど、そこだけはわたくしも同じよ。ただ、それがたまたま誰かのためになってしまうことが多いから、優しいと勘違いする子が多いのですわ」

まだ中身が残るカップをリヒャルトに渡しながら、女王はそう締めくくった。
リヒャルトは女主人のやけに強い物言いに、僅かに間を置いたあと、口を開いた。

「ならば何故、引き受けられたのです?」

彼の問いかけに、女王は片眉を跳ね上げた。
リヒャルトは更に言葉を重ねる。

「陛下は、あの方が何らかの利己的な目的の為だけに、ユリア様をこちらに留まらせることを、お許しになられました。それは、なにゆえでしょう?」

彼女が今まで述べたことは儀式屋への批判である。
だが、そこまで言っておいて、彼女はユリアが留まることを許したのだ。
許すということは、彼の横暴とも取れる行動を、肯定したということにもなる。
この矛盾はいったいどういうつもりか、とリヒャルトは問いかけたのだ。
真紅の女王は、長い髪を後ろにはねのけて答えた。

「あの人はわたくしが最早ユリアを見捨てられない気持ちを知っているのよ。そこに漬け込んで、ユリアを押し付けたのですわ……本当に、狡い人よ」

狡い人、と彼女は言い放ったが、先程のような剣幕は既になかった。
儀式屋が彼女の庇護欲にも似た気持ちを熟知しているように、女王も彼の狡猾さを把握している。
それをお互いに利用し、時に相手を出し抜き、時に引いてみたりして、関係を構築してきた。
だから彼女は、儀式屋の頼みごとを引き受けたのだ。
アイスブルーの瞳を伏せて微笑を浮かべた彼女に、リヒャルトは問いを重ねることはしなかった。
一言、左様でございますか、と静かに返した。

七章§04

それからリヒャルトは女王の身支度を手伝いながら、今朝までに起きた事柄で彼女に伝えるべきことを諳んじた。

「アンソニー様がユリア様への面会を昨日から申し入れられています。如何致しましょうか」
「あら、情報の早い人だこと。……でも駄目よ、あの子が落ち着くまでは、この屋敷に常駐する者以外の接触は、あってはなりません」
「ではアンソニー様へは、お断りのお返事をしておきます……常駐する者のみといいますと、陛下を慕われる彼らも論外、でございますか?」

彼ら、とリヒャルトはワインレッドの軍服に身を包む者たちのことを尋ねる。
女王は首を縦に振った。

「もちろん、その通りですわよ。あれらはユリアにとっては刺激物以外の何物でもなくって?」
「間違いではない、とは思われますが」
「ではリヒャルト、貴方からそのように伝えておいてちょうだい。まだ今日までにあの子に接触した者はいないはずね、だからたった今から万が一、ユリアに彼らが接触した場合、その者には1ヶ月庭掃除を命じるということにしますわ」
「……承知いたしました」

女王の気品溢れる長い髪を梳きながら、リヒャルトはほんの少し彼らを憐れんだ。
だが、そう思いこそすれども、彼女に逆らうことはしない。
最後の一房に櫛を通し終えて、鏡越しにリヒャルトは少し厳しい顔で残りの事柄を伝えた。

「それから、陛下が仰られていた通り、悪魔街で良からぬことが起きているようで、午後から派遣していた者が報告に来るようです」
「そう……」

ふ、とアイスブルーの瞳がかげる。
この数週間、自分の預かり知らぬところで精神世界が乱れている、と女王たる彼女は感じていた。
どうにも、体が怠いのだ。
この感覚は、悪魔街で何かが起こっているに違いないと彼女は踏み、私兵を送り込んだ。
いつものあの野蛮なミュステリオンが執行する聖裁であれば、倦怠感よりも先に苛立ちが心を満たすからだ。
出来るなら外れていて欲しかったのだが、そうでもないらしい。
暗鬱な気持ちを吐息と共に吐き出し、少し心配そうに見つめるリヒャルトと目を合わせた。

「……いいわ、会いましょう。ただし、ユリアに気付かれてはだめ、いいわね」
「御意に」

少しほっとしたように彼は微笑んだ。
そして彼が次の言葉を口にしようとした瞬間、先読みをして女王は口を開いた。

「いらないわ」
「……陛下、まだ私は何も」
「食欲がないのよ、だからいらないの」
「なりません、せめてオートミールだけでも召し上がらないと」

するりとリヒャルトの脇をすり抜けてテラスに向かう女王を、彼にしては珍しく難しい顔で窘める。
が、彼女の耳には入らないようだ。
戸を開け放てば、陽光と朝露に濡れて濃厚な花の香りが、彼女の鼻孔をくすぐる。
それを胸一杯に満たせば、それだけでもう、何も口にしなくていい。
女王はそう思っていたが、白髪の執事は、そうはいかないらしい。
後ろからほんの少し呆れたような溜息が付いて来て、彼女の一歩後ろで立ち止まる。
だが、再度同じ言葉が紡がれるより早く、麗人が口を開いた。

「ねぇ、リヒャルト。貴方はどんな時に、生きていると感じますの?」
「……、私は、陛下のお側にこうしてお仕えしている時に、そう感じます」
「あら、なんていい子の解答ですのそれは。……わたくしはね、リヒャルト。こうしてわたくしの“庭”を眺めて、胸一杯に香りを満たすことがそうよ」

だからね、とビロードのような真紅の髪を靡かせて向き直った彼女の表情に、執事は些か驚いた。
氷のように冷たい彼女の瞳に、寂しい色が浮かび上がっていたからだ。

「あの子にも、そんな何かを見つけてほしいと思いますのよ……、此処にいる間にしっかりと自身と見つめ合って…」
「……、……」

何か言葉を掛けようとして、リヒャルトは上手く口が動かなかった。
この目の前の緋色の麗人の、なんと人を想う心の優しいことか。
その美しい心から生まれた言葉に、悪魔たる自分の卑しい口が何か言葉を重ねてよいはずがない。
暫しその場を沈黙が満たして、それからふっと女王が笑った。

「さぁリヒャルト、貴方、何かすることがあったのではなくて?」
「……、オートミールをお持ちしてよい、ということですね?」
「わたくしの気が変わらぬうちになさいな」
「御意に」

リヒャルトは穏やかに笑うと一礼して、部屋を後にする。
それを見送った女王は、再び自身の庭を見下ろして、ぽつり、と。

「……ユリア、貴女の心に、安寧な時間が訪れますように」

静かに彼女は呟き、長い睫を祈るように伏せた。

七章§05

──そうして女王がユリアを案じる現在から、四日前に話は遡る。



儀式屋から命令されたそのすぐ後、Jは隣に暮らすミシェルを訪ねた。
ミシェルたち“女王の駒”は、常にミュステリオンに対して警戒を怠らないが、同時に悪魔たちに関してもそうだ。
悪魔の行動一つが、女王たるルールを脅かしかねないとなれば、彼らは実力行使するのだ。
ゆえに、悪魔街の状況はミシェルたちに聞けばほとんど正確といえる。
潜入するにあたってJは、まずはミシェルに今の二区の状況を聞いておこうとしたのだ。

「Jー、俺はあんまりおすすめしないぞー?」

Jからの話を聞いたミシェルは、開口一番そう言ってきた。
部屋一面真っ赤で埋め尽くされた中、彼は紅蓮のジョッキとビール瓶を持って現れ、やはり濃厚な赤の机に置いた。
瓶を傾けて注がれるものを眺めながら、その言葉にJは眉を寄せる。

「なんでだよ」
「いや、さっきJさー、自分で言ったよなー?二区で、何があったか」
「だから馬鹿悪魔が逃げ出したんだろ?それがなんだよ」
「だからさー、ミュステリオンが二区を徹底的に聖裁し始めるの、目に見えてるだろー?」

はぁ、とJは盛大な溜息を吐いた。
いったいこの男は、何を考えているのか、そんなことは百も承知なのだ。
それを理由に己の主人が撤退せよというわけもない。
だからなんだ、と問い返せば、ミシェルは一瞬言葉を無くしたように口を開閉させた。

「……もーJさん怖いってー…何なの?ミュステリオンだよー?しかも聖裁だよー?」
「こちとら慣れてるっての、ムカつくけど」
「……まぁもういいや。で、まぁさー、うちからも何人か送り込んでてー、あの事件起こる前の状況としてはー、とにかく手が着けられない?みたいなー」

最早諦めたかのようにミシェルは話し出した。
その口調からはおよそ危機感といったものは伝わらないのだが、実際に彼が話していることは、そんなのんびりとしてはいられないようなものだ。
それを吸血鬼である彼も感じ取ったのか、やや渋い顔で言葉を返した。

「どういう意味?」
「もういつでも準備出来てるってわけさー。何かのきっかけさえありゃ、あいつらは動き出すってーわけ!言っとくけど、これは二区ばっかりじゃないぞー」
「ああ……それはアキちゃんから聞いたし、俺も七区でマルコス坊ちゃん助けた時にそう感じた。ってことは、特別に二区がひどいっつーわけじゃないんだろ?」

そう尋ねれば、そういうことだなー、とミシェルは頷いた。
そして、ジョッキを呷るとやや偉そうにふんぞり返ってこう告げたのだ。

「今じゃ半分以上、革命派で埋まってるんさー。一つが失敗すりゃ、次の区がする。今回は二区、前回は七区……その前はこれだっていうようなものは確認出来てないけど、絶対あるだろうなー」
「……ならその次はどの区になる?」
「おいおい、俺は預言者じゃあないぞ?」
「規則性はないのか?」
「規則性なんか分からないけど、適当って訳でもないなー。唯一知る方法はあるぜー?」

にやりとミシェルは笑った。
Jはその笑顔に、嫌そうな顔を返した。
この男の笑顔は、よくないのだ。
女王の駒である彼は実にこの世界、特に悪魔街の内情に精通している。
だからその男が悪魔街に関して笑うとき、非常に厄介な事柄であることは確かなのだ。
不服そうな顔のJに、ミシェルは軽く肩を小突いた。

「大丈夫だってー。二区の貴族の屋敷に入り込んだらいい、近いうちに会合が開かれてそこで次の区が決まるってわけさー」
「……、馬鹿?」
「失礼すぎるなーもー!簡単だってー」
「いやどこが!?貴族の屋敷とか何言ってんだよっ!んなとこ入ってみろ!夏の虫でももっとましなとこに飛び込むだろうよ」

はっと鼻で笑うと、注がれていたビールをぐいっと飲んだ。
口内に一気に苦味が広がり、それが自分の今の気持ちと同化しているようで、ますます気持ちが荒だった。
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