口を固く引き結んだ少女に、ヤスは何かしら言葉をかけてやろうと思ったが、何もでなかった。
アリアの言うとおり、儀式屋の言葉は絶対なのだ。
自分たちに、逆らうすべはない。
あのJとて、不平不満を並べ立てても、結局は従うのだ。
それが、自分たちと儀式屋の間に出来た契約。
だがそれでも、ヤスはユリアの気持ちが痛いほど分かった。
理由もなく、ただ言われたことにイエスと頷けというのは、納得いかないものだ。
たとえそれが、絶対の契約だとしても。
硬い表情で俯く少女をこれ以上見ていられなくて、茶に染め抜いた頭を垂れて、彼はそっぽを向いた。

「ヤス、ユリアの二人はもう休みたまえ」
「………え」
「休みたまえ」

同じ言葉を二度繰り返した主をヤスは直視する。
血のようなルビーの目は、何の感情も映し出さない。
ただ、笑みの形にだけ歪められている。
何故自分たちだけ、と言いたかったが、その目は絶対的な威圧感で何も言わせない。
ヤスは視線をそのままユリアに流した。
ユリアは目があった途端にJの束縛から放たれ、皆に夜の挨拶をするとすぐに出て行った。
呆気に取られたヤスは、はっとしておやすみなさいと言って慌てて少女を追い掛けた。
ばたばたと廊下に足音が反響し、やがて聞こえなくなった。



「ユリアちゃんっ」

ヤスはユリアを追いかけ二階へと駆け上がり、少女が部屋に入ろうとしたところで声を掛けた。

「ヤスさんっ?どうしたんですか?」

声を掛けられたユリアは、目を丸くして振り返った。
もうとっくに帰ったと、少女は思っていたのだ。
ヤスは、Jと同じようにこの『儀式屋』ではないところに住んでいる。
ゆえに、彼は二階へ上がる必要はなく、ユリアが驚いたのも納得できる話なのである。
ヤスが真っ直ぐ帰らなかったのは、どうにもユリアのことが気になったからだ。
何故か、このままではいけないと、直感した。
このまま明日を迎えるわけにはいかないのだ。
だって出て行く時の少女の横顔は──

「ユリアちゃん、大丈夫っすか」
「え?何が……?」

ユリアは首を傾げて尋ねた。
問われた意味が分からないのか、純粋な問いかけだ。
ほんの少し視線を泳がせてから、ヤスは躊躇うように言葉を補った。

「その、さっきの旦那の……」
「……儀式屋さんに、言われたことですか?」
「うん、そうっす」
「あれは……儀式屋さんがそう言ったなら、従わなきゃですから、いいんです」

と、ユリアは少し困ったような顔をして答えた。
どこか自分でも納得しきれていないから出てくるような表情だ、とヤスは直感した。

「ユリアちゃん、そんでいいんすか」
「え?」
「本当に、納得できてるんすかっ」

自分よりも低い位置にある少女の肩を掴み、彼は黒い瞳を覗き込んだ。
澄んだ純粋な黒は、覗き込まれた途端に躊躇うように揺れた。
ヤスは、更に言葉を重ねる。

「確かに俺たちは、旦那の命令は絶対っす……だけど、旦那は俺たちに感じる心を許した。だから、気持ち、誤魔化さないでいいんすよ」

ヤスが言葉を紡ぐうちにも、ユリアの頭は下を向いていった。
暫くして、少女から小さな声が聞こえた。

「……私、儀式屋さんに、何も教えてもらえてない」
「…………」
「精神世界のことも、儀式屋さんが誰かを探すのを目的にしてることも、知らなかった……、私はまだここに来てそんな経ってないからだって、それは納得しました」

でも、と。
逆接の言葉を口にしたとき、少女の声が震えた。

「さっきの、儀式屋さんのは……私、必要ないんじゃないかって…私だけ、邪魔者扱いされてる気がして…」
「ユリアちゃん……」
「そりゃ、ヤスさんとかJさんは強い……私は何もできない。だけど、私だってこのお店の、一員なんですっ!一人だけ、何処か違う場所なんてっ……」

そこから先は、声にならなかった。
後から後から涙と嗚咽しか出なくて、何も考えられなかった。
ただユリアは、込み上げる思いを声にならない声で吐き出すしか出来なかった。
そんな少女を前に、ヤスは肩に置いた手をゆっくりと、ほんの少し躊躇いがちにユリアの背に回す。
そのまま、ユリアも、ユリア自身の涙も全て包み込むように抱き締めた。
暫く暗い照明だけが照らす廊下に、二人はじっと立ち尽くしていた。