上質の絹を思わせた髪はぐちゃぐちゃで、彼女自身が走ったわけではないのに、何故か額や首筋には汗が浮いている。
おまけに、きっとヤスに担がれている間に平衡感覚が狂ったのか、地上に足を着いてもふらふらしている。
そんなユリアを、Jはさり気なく自分の方に引き寄せ、後ろから抱きかかえるようにして、ソファの縁に腰掛けた。
ついでとばかりに、髪の毛を手櫛で整え始める。
ユリアは一瞬驚いたような表情を見せたが、彼のこうした行動にも慣れてしまったのか、抵抗せずに身を預けた。
代わりに、のっぽの男が顔を真っ赤にさせて両眉を吊り上げた。

「さて、これで皆帰ってきたね」

他の誰かが口を挟む前に、儀式屋が口を開いた。
その一言で、部屋の空気が一変する。
緩んでいた糸が、ぴんと張るようなそれだ。
Jに文句を言おうとしたヤスも、ユリアを労おうとしたアリアも、それを感じ取り半開きにした口を閉ざす。
全員が注目したところで、儀式屋はゆっくりと話し出した。

「これから皆には、少々私の勝手に付き合ってもらわねばならなくなるのだが、」
「いつものことじゃん」
「J君、口を挟まないのっ」
「……、色々と指示を個々人に出す。これから伝えることは、君たちの業務において最優先事項だ、覚えておきたまえ」

Jの妨害に少し眉を顰めたが、中断することなく彼は続けた。
帰ってくるなり、いきなりの話の展開にヤスとユリアは戸惑いを覚えたが、これ以上儀式屋の話の腰を折る気にはならなかったので、口を噤んでいた。
闇色の男は口元の笑みを広げる。

「まずは全員に伝えよう、悪魔の動きにはくれぐれも気をつけるように。また、ミュステリオンからも目を離さぬように……J、君には二区の悪魔街を調べてほしい」
「えー、そういう潜入調査はアキちゃんの管轄だろ」
「アキは顔が割れすぎた」
「ならヤスくんだ」
「ヤスは潜入には向かない。彼は嘘をつけないからね」
「………わかったよ、仕方ないな」
「って、納得しちゃうんすかそこは!」

やれやれと溜息混じりに承諾した彼に、たった今よくわからない形で侮辱された気持ちになったヤスは呻いた。
が、そこで一々構っていては時間の無駄なので、誰も相手にしなかった。

「ヤス、君は通常営業だ。ただし、いつも以上の警戒をしてほしい。少々厄介な相手が来ているようだからね」
「は、はいっ分かったっす」
「それからアリア、君にはミュステリオンを監視していてほしい」
「あら、私?」

鏡の女神が意外そうな声を上げた。
闇色の彼は、もちろんだとも、と返す。

「君は屋内であれば誰よりも潜入調査に向いているのだよ」
「儀式屋、私は貴方の従業員じゃないのよ」
「百も承知だ」
「なら、その見返りは頂きますからね。ああ、それからユリアちゃんの届け出をした時のも、忘れずに」
「やれやれ、君はちゃっかりした女性だね」

くつくつ笑いながら、彼は答えた。
つられて、アリアもふふっと口角を持ち上げた。
その笑いに、ほんの少し室内の空気が軽くなる。

「アキは起きてから頼むとして……ユリア」

名を呼ばれたユリアは、Jの腕の中で身体を硬くした。
これまで一人ずつに与えられた命令を聞いていると、段々とユリアは自分に課されるものに対して不安になってきたのだ。
だが、ユリアに出来ることといえば、精々店内のことに限られている。
不安があったものの、なんとなくヤスと同じだろう、とユリアは見当をつけた。
じっと少女が見つめると、ルビーを嵌め込んだような目が嗤った。

「君には暫く、“彼女”のもとにいてもらう」
「………えっ?」
「“彼女”の許可が下り次第、行ってもらうことになる。いいね」
「あの、」
「まぁ、妥当っちゃ妥当だね。俺も賛成だ」

彼女を膝に乗せたまま、Jが珍しく賛同した。
呆然とした表情でユリアはJを振り返ったが、彼はいつも通りの顔だった。
むしろ、振り返ったユリアが不思議だと言わんばかりに、彼は首を傾げてみせた。
ユリアが何も言えずにいると、鏡の美女が声を掛けてきた。
その声は、ほんの少し憐れみを含んでいるように、少女の耳に届いた。

「ユリアちゃん、儀式屋の命令は私たちには絶対のものよ……だから従いなさい」
「……はい」

きゅっと口を引き結び、ユリアは頷いた。