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福島の為でなく、自分達の為に

私は原発賛成派では決してありません。
むしろ脱原発の側にいるつもりです。
原発さえなければ、原発事故は起きませんでしたからね。

でも、反原発デモは嫌いです。
そもそもデモというものがあまり好きではないのですが、たまたま東京に行った時出くわした反原発デモで徹底的に嫌いになりました。
その時にも書いて、デモの参加者の方にご指摘を頂いたのですが、今もなお
「自己満足」
なのではないかと思います。
極端な話、そんな事をする時間の分ボランティアをするとか、働いて募金するとかした方がよっぽど人の役に立つんじゃないか。と思ったり。

で、これは、昨日の福島民友の記事。
丁度、その事が載ってました。

『毎週金曜に2〜3000人の人がデモに参加。
首相官邸前を中心に太鼓や鈴のリズムに乗せて訴える。
「原発いらない。子供のために、未来のために」
「ドラムをたたこう。みんなの声で原発なくそう」
マイクに乗せてそれぞれが思い思いの言葉を訴える時、時折聞こえて来るのは
「食べて応援なんて、絶対だめ」など
当初は
「そんなところに子供を住ませるな」
など福島が悲惨な状況だと強調する発言も目立ったという。
主催者は参加者の発言に寛容。
「原発事故に県境は無いが、自分も事故の当事者という意識が希薄な人がいる」
と認めつつも、活動の継続の為に反原発へのそれぞれの考えを表面化させたらデモは行き詰る。
「デモを止めれば、反原発への思いが消えたと解釈される。続けるのが重要」
と語る。

福島のためと言いながら一方で
「あんなところ住めない」「障害児が生まれまくっている」とか平然と言う人が(運動の)内部にいることが嫌悪感すら呼び起こしている。
「反原発の活動、言動が福島差別を助長してきた面はある」

内容は抜粋ですが基本、その通りだなと私も思います。
デモの一部、かもしれませんが参加者や主催者。
どこかの教授とか、どこかの黄色い人とか、どこかの国会議員とかその他もろもろ。
「反原発」「脱原発」を語る人達の何割かは(全てとは言いません)自分の為に、多分
「福島には不幸になって貰わないと困るのです」
そこに福島を真剣に案じる気持ちは多分、ありません。
あるのは自分を注目して貰いたいという気持ち。
自分は正しいことをして、正しいことを言っているのだという快感を得たいのだと。
100歩譲って本当に福島を心配して下さっていたとしても、それは自分の中の正義を相手に押し付ける事。
私の好きな小説の言葉に「地獄への道は善意で舗装されている」というのがありますが、まさにそんな感じですね。

人の考えは人それぞれ。
絶対の正義なんてどこにもありません。
それぞれの思いを尊重しながら、意見を出し合い、互いに理解を求めていくのが本当の意味で大切なんじゃないかなと思うのです。

まあ、そんな人達の思い通りになって福島県民が落ち込んだり、遠慮したり、不幸になってあげる義理はありませんので、思いっきり毎日を満喫していこうと思います。
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