Jから逃げるようにして階段を駆け下り、スタッフルームにヤスは飛び込んだ。

「どうしたの二人とも!」

深刻そうな顔の青年と、その彼に抱えられ入ってきた少女を迎えたのは、たった今帰ってきた鏡の美女だ。
その麗人、アリアは、二人の姿に目を丸くした。
ヤスは赤いレザーのソファにユリアを座らせ、己はその対面、アリアに背を向ける形で腰掛ける。
それから、この事態の説明を待っている鏡の中の佳人へ。

「……、Jが、やっちまったんすよ」
「…どういうこと?」
「あいつ、ユリアちゃんの前で正体バラして、ユリアちゃんを喰おうとしてたんすよ!」
「何ですって…」

だんっ、とローテーブルに拳を叩きつけた音で、アリアの声は掻き消えた。
深い藍色の瞳が、信じられないと言いたげな色になり、震える彼の背を見つめる。

「J君、儀式屋の血しか飲めないはずよ…いったいどうして…」

そう、Jは契約を交わしたのだ。
儀式屋の血を与えられる代わりに、儀式屋に永久に仕えると。
立会人として、その日のことをアリアは鮮明に覚えている。
だからこそ、Jが何故ユリアを襲ったのかが分からない。
その疑問に答えるように、ヤスが口を開いた。

「……多分聖裁に遭ったんだと思うっす。じゃなきゃあいつが、理性失って、本性出して、ユリアちゃんを襲うなんて、考えられないっす…」

聖裁、その単語にアリアは胸を締め付けられる思いがした。
アリアはそれが、どれほどJを傷付ける行為なのかを知っている。

Jがミュステリオンと渡り合えるということ、それを称賛する者は多い。
だがJとて、そうしたくてしたわけではないのだ。

“何かに熱中してなきゃ、俺は俺であることを、忘れてしまいそうになる”

いつだったか、Jはそう言ったことがある。
彼は過去を持たない、契約の時に儀式屋へ全て渡してしまったから。
自分を定義するための名前さえも、彼は忘れてしまった。
だから、自分が誰なのかが分からなくて、彼は怖くなるのだ。
だから、敵として向かってくるものを、彼はその力を以てして闘う。
その時だけは、自分を必要とし憎んでくれる相手がいる──それが、それだけがJをJたらしめんとしてくれているのだ。

それがアリアには、彼が自虐的になりどうにも苦しんでいるようにしか見えないのだ。
引き止めたいのに、でもそのための手が彼には届かない。
ただ此処から見守るしか出来ない、それがアリアには歯痒かった。

「……っ…!?」
「どうかしたっすか、ユリアちゃ…えっ!?」

思考の底に沈んでいたアリアは、のっぽの青年の驚いたような声に反射的に顔を上げた。
ヤスは立ち上がり、ユリアの手を掴んで固まっている。

「どうしたの?」
「あ…姐さんっ、ユリアちゃんの…血が…」
「血…?」

アリアの覗く鏡の位置からでは、その状況がよく分からなかった。
やや困惑していると、少女がか細い震える声で告げた。

「わ…たしの、血…ぎん、いろ…」

真っ白な指先に付着した、本来ならば真っ赤な色のそれは、きらきらと輝く銀色だった。
深海色の瞳が、目一杯に見開かれた。

「…銀色って、まさか……姐さん?」

ヤスがそちらを見たとき、鏡の中は既に空っぽだった。







どのぐらい、そうしていたろう。
じゅっ、と唇が肌を吸う音がして、吸血鬼は漸く顔を上げた。
ぺろりと真っ赤な舌を出し、唇を舐め、嚥下。

「……満足したかい、J」
「ああ…」

手の甲で口を拭い、Jは返事をした。
儀式屋は頷くと、開いたままの傷口に反対の手を当てる。
傷痕に沿って動かせば、そこは瞬く間に元の陶器のような腕に変わる。

「瀕死状態とは…何年ぶりかね」
「さぁ?興味ないよ」

その様を傍目に、Jはゆったりとした動作で立ち上がった。
と、儀式屋は彼の長い髪を掴み上げ、両目共に覗き込んだ。

「……何?」
「君は、気付いたね?」

有無を言わさぬ語調で、儀式屋は金瞳に問い掛けた。