頭上を、一陣の風が通っていった。
刹那、ぴりっと首に微かな痛みを感じた。
それから、首の締め付けがなくなって、急激に酸素を吸い込んだためにむせ返る。
むせていると、体が誰かに抱き起こされた。
その時初めてユリアは、黒い瞳を開いた。

「J、いったい何やってるっすか!」
「ヤス…さん…?」

柔らかな茶髪が視界に入り、癖のある喋り方で誰だか気付いた。
ユリアの声に、ヤスは腕の中の少女に目を向けた。
眉が八の字になり、安心したような顔だ。

「…大丈夫っすか、ユリアちゃん」
「はい…」
「良かった…本当に良かった…」

ぎゅうっと、逞しい腕が少女の体を抱き締めた。
壊さないような優しさと、でも生きていることを確かめる強さをもって。
束の間そうしてから、ヤスは急に顔を真剣なものにする。
ユリアもそちらを見て、身を硬くした。
仰向けになる形で、吸血鬼が倒れているのだ。
無意識に、回されたヤスの腕を握り締める。

「ヤスさん…ど、して…?」
「ユリアちゃんがあんまり遅いっすから、見に来たんすよ。そしたらJがユリアちゃんを襲ってたっすから…思い切り頭を蹴り飛ばしてやったんすよ」

そう話しているうちに、ぴくりとJの腕が動く。
ヤスは神経を研ぎ澄まし警戒する。
吸血鬼は、だが起き上がる様子はない。
代わりに、そのままの姿勢で話し掛けてきた。

「………ヤス…くん…?」
「正気に戻ったっすか」

聞こえてきたのは、いつもの彼の声だった。
しかしヤスは、緊張を解かない。

「ごめん…頼みがある…」
「何すか」
「一人に、させてくれる…?」
「……、分かったっす」

弱々しく震える声に、ヤスは何か言いたげな顔だったが、下唇を噛むとユリアを抱えて立ち上がった。
目線が高くなったことで、ユリアはJを見下ろす形になる。
吸血鬼は焦点の合わぬ目で、ただ何処かを見て──哀しそうに笑っていた。

ヤスは吸血鬼に背を向けると、廊下を足早に元来た方向へ進んでゆく。
角を曲がるまで、ユリアはヤスの肩越しにずっと、一人暗い廊下に倒れこむ彼を見ていた。
その姿に、何故かユリアは瞳から雫が零れて、微かに痛む首筋に手を当てた。





階段を降りていく足音が消えてから、Jは深々と溜息を吐いた。
それから、顔面に腕を置いて。

「儀式屋……見てたんだろ…」
「そうだね、ずっと見ていたよ」

ぞわり。
炎が揺らめき、それまで誰も居なかったはずの場所へ、一つの影を落とした。
死者のように顔が白い、儀式屋だ。
儀式屋の声に、吸血鬼は笑った。

「悪趣味だよ、儀式屋」
「人聞きの悪い…私は、君がどうするのかを監視していたに過ぎないよ」
「じゃあ覗き魔だ」
「J……」

己の部下の散々な言い様に、漆黒の彼は呆れたように名を呼んだ。
儀式屋は赤い瞳を細めて、見下ろす。

「……まだ、耐えられるのかね?」
「……………」
「…痩せ我慢が、君は好きだね」

答えなかった彼に、儀式屋は薄ら笑いを口元に貼りつけた。
それからさっと腕まくりをし、顔同様に色のないそれを晒した。
そして、ポケットからナイフを取り出すと。

「我は汝に我の血を与え、汝は永遠に我の所有物となる──誓え、その命すべて我のものとなることを」
「……誓う、我、御身の所有物である」
「なれば、我の血を受け取るがいい!」

宣言、そして一思いに儀式屋はナイフを腕に当て、引いた。
腕に一筋の後がつき、そこが開いて真っ赤な──否、銀の液体が、浮き出た。
途端に、吸血鬼は身を起こすと、その腕に飛び付き上下の牙で挟み込んだ。
銀の液体を、一滴たりとも溢さないように、舌を押し当て傷口を舐める。
喉が動き、嚥下。
吸収され、全身に行き渡る。
見開かれていた瞳孔が、元に戻っていく。
長い牙も、見慣れたそれに変わる。
それでもJは、儀式屋のそれを摂取することを止めない。

「……飼い主付きの、吸血鬼か…」

闇色の男の呟きが、廊下にこだました。