──…外で待機していると言って、小姓は静かに豪奢な扉を閉めた。
一人きりになり、そこで漸く総統は大きな溜息を吐き出した。
とっくに気分の悪さはなくなっていたが、どうにも気持ちがまだ浮ついている。
なんとか落ち着けようと、彼は見慣れた自室を見渡した。
流石はミュステリオンを統べる男の部屋だ、そこかしこに贅沢品が並べられている。
いつもであればそれらに囲まれているうちに落ち着くのに、未だ胸の内はざわついていた。
理由は痛いほど分かっていた、分かっていたのだが、認めたくなかった。
何故自分が、無意味にそわそわしてしまうのか──

「私はそんなに落ち着かない存在なのかね」

その、闇を多分に含んだ声は何処から聞こえたか。
室内の何処を見渡しても、声の主は見つからなかった。
だが、総統は驚きはしなかった。
分かっているのだ、声の出所が何処であるのか。
猛禽類に似た瞳を、眼下に伸びる自分の影に落とした。

「自分の中にお前がいると思えば、誰でも落ち着かないだろう」
「ああ、失礼」

影はそれはそれは可笑しそうに言うと、総統の影からその姿を現した。
だが姿を現したところで、それもまた闇に近い色合いをしている。
目の前に、突然闇が広がったのかと勘違いするほどだ。
唯一はっきりしているのは、死者の色をした男の顔だ。
その顔には、薄ら笑いが貼り付けられており、至極機嫌が悪そうな総統に向けられた。
だが、そんなものは見えないかのように、実に恭しく儀式屋はお辞儀をした。

「ご機嫌如何かな、ハワードZ世」

やけに赤い唇が、そんなことを紡いだ。
そう呼ばれた総統は、ますます顔をしかめた。
そして、鋼鉄にも似た声音で、儀式屋へ返すべき言葉を口にした。

「私をその名で呼ぶな。私はミュステリオン総統クロードだ」
「そうかね?どちらも貴方に変わりないがね」
「ものを縛る名はいくつもある、だが中でも一番効果的に縛れるのは、そのものの魂に刻まれた名だと、お前が私に言ったのだろう」
「ふむ、貴方は私に縛られるのが余程気に食わないのだね」

特に気分を害したでもなく、あっさりそう言ってのけた。
そして、眼前の男から目を外すと、周囲を見渡した。
翡翠と純白の市松模様の絨毯の上を、黒い影が移動していく。
壁に飾られた悪魔を拷問にかける醜悪な絵画を眺めながら、儀式屋は口を開いた。

「まずは非礼を詫びよう、会議の途中だったようだね」
「ああ、そうだ。そこまでして私を呼び出した理由を問いたい」
「理由?はて、貴方は察していると思ったがね、ハワード」
「その名で呼ぶなと言っている」

じわじわと、ハワードの怒りが沸き上がってきたのを感じたのか、儀式屋は喉の奥でくつくつ笑った。
すまないねクロード、と言って儀式屋は続けた。

「単刀直入に言おう……手記のことで、少しね」
「……アンソニーの館に送られたもののか」
「ああ。此処へ来る途中、寄り道して“読んできた”のだがね……あれは、あってはいけないものだ」
「というと?」
「守りの詩が書かれ、あまつさえ解読されている」
「!?」

初めて、ハワードの両眼が驚愕に見開かれた。
予想だにしていなかったのだろう、息をするのも忘れたかのように、固まっている。
儀式屋は何もかも見透かしたような瞳でハワードを見据える。

「エドだったかね、彼が手記を狙ったのはそういう理由から、なのだろうね」
「ならば、早急に回収をせねばならん」
「アンソニーが手放すと思うのかね?むしろ、彼が預かっている方が安全だ、彼ほど物に固執する男はいないからね」

それにだね、と間髪おかず儀式屋は続ける。

「内部に置く方が危険だ」
「……エドのようなやつが、他にもいると?」
「可能性はなきにしもあらず」
「馬鹿な、有り得ない!」

ハワードは鋭い一声を放った。
鷹の目で闇色の男を、射抜くかと思うほどの視線を向ける。
だが、それにも儀式屋はうっすらと笑ってみせるだけだった。
まるで、違うと駄々をこねる子供を、面白おかしくからかうかのような顔だ。

「ハワード、貴方の鷹の目は何が見えるのかね」

皮肉を満遍なくまぶしたような言葉と笑みは、憤怒に顔を歪めた男に向けられた。