──男は物心ついた時から、美しいものが好きだった。
だがそれは、宝石のように光によって人を魅了させる物でも、オーケストラにより奏でられる音楽に対して、でもなかった。
男の興味を惹いたのは、過去の巨匠たちが遺した、世界に溢れる美術品の数々だった。
人物や風景の一つ一つが、繊細に、時には大胆に描かれる絵画。
なだらかで力強い曲線が、生命を吹き込む彫刻。
最高の技術が駆使された美しい建造物、光に煌めきより美を顕わにするステンドグラス、有らん限りの装飾を施された仮面……それらが彼の心を捉えて離さなかった。
街にあった美術館へは、顔が覚えられる程に足を運んだ。
それだけでは飽きたらず、自分が行ける範囲の美術館には全て赴いた。
そんな彼自身が、それらを創造する立場になるのは、自然な流れだった。
彼の作品はそれなりの評価を得て、芸術家になっても成功するだろうと言われていた。
だが、彼自身はそのつもりがなかった。
彼は、生まれ故郷の美術館に就職したのである。
誰もが驚いたが、本人だけは満足だった。
自身の作品も好きだったが、それ以上に他者が遺す美を彼は愛していたのだ。
やがて彼は、その美術館の館長となる。
愛すべき宝箱を手に入れた彼だったが、しかし瞬く間に絶望が襲った。

「──私の愛した全ては、戦火に消えてしまった……たった一瞬で、儚く、灰へと帰したのだよ…」

哀しみを押し殺したように、掠れた声が答えた。
それまで自信に満ち満ちた声音だったのに、急激に萎んで覇気がない。
彼の中の喪失感が浮き彫りにされ、アンソニーが全く異なる誰かのようにユリアには見えた。
淡い色を宿した彼の目は、ユリアを通り越して背後の壁を見つめていた。

「それから気が狂ったような生活を送った……誰に何を言われても、頭を過ぎるは消えた私の美術品たち。何故だ…何故私の愛したものが、下らぬ人間共の争いのせいで犠牲にならねばならない!?何故よりにもよって、私のなのだ!私が何をしたという?私はただ、溢れる彼らの才能の結晶を、守ってきただけじゃないか……なのに何故、こんな仕打ちを受けなければならないのだ!!」

白と黒の世界を叱責するかの如く、腹の底から、彼の怒りが吐き出される。
その様が“彼女”と重なった。

(この人も、リベラルさんと同じなんだ……)

赤をその身に纏い、毅然として振る舞うルールである女王。
美術品をこよなく愛し、鋭く目を光らせる神経質な彼。
その双方の根底に流れるのは、庇護せねばならぬという義務感。
それが二人を突き動かし、支えているのだ。

「そして暫くすると、今度は酷い妄想が私を蝕みだした…私の愛した全ては、灰になったのではなく、“違う世界へと消えてしまった”と、考えるようになった」
「…………」
「そこに何としても行きたいと願って、願って願って行く方法を探し求めていたら……あの男が、現れたのだ。私が望むものを寄越せば、願いを叶えてやろう、とな」
「………?」

そのフレーズに、ユリアは小首を傾げた。
いつか聞いたそれは、何処で聞いたのだったろう?
思い出せない程の、昔のことではなかったように思うのに。

「あの男は、私のヒトとしての感覚を奪い、狂わせたよ……全ての美に対する感情が、過剰なまでに外へと放出させられる…醜い程に、剥き出された執着心は、その一部だ」

己の両手を開き、そこに汚い物があるように凝視すると、思い切り握り締めた。
それからすっと顔を上げ、ユリアを真っ直ぐに見つめる。

「引き換えに得たのは、モノの価値を見抜ける真実の目だ。このおかげで、私は精神世界に散らばった価値ある美を見付けることが出来るようになった……欠点すらも、それを探し出し得る為には、使える手段ともなったな」
「……それで、アンソニーさんがこの世界に消えたと思ったものは、見付かったんですか?」
「失った物は、二度と戻らないと痛感したよ……だが、私は今、今日までに集めたもの全てを愛している……それで、十分なのだよ」

満足したように口元を三日月にして、彼はゆっくりと頷いた。