……そして路地を抜けた時、サキヤマは眉間に更に皺を刻んだ。
目の前の光景──追い掛けていたはずの悪魔が、少女の首へ腕を回している。
所謂、人質というものだ。

「何の真似です?」
「み、見て分かるだろっ……俺を逃がせ。でなきゃ、これを殺す」
「………面倒なことを」

ぼそりと口内で呟き、何事か分かっていないであろう少女を見る。
黄色いエプロンドレスを身に纏った少女は、きっとこの近辺の人間だろう。
それが厄介だった。
基本的に、標的以外を傷付けることは厳禁である。
それを破っても許されるのが全異端管理局──だが、この場ではわけが違う。
すぐそこに、鮮血を全身に浴びたように真っ赤な女の屋敷がある。
目と鼻の先で、その女が大切にするものを壊すことは、彼らでも破ってはならない。
この悪魔もそれが分かっていて、このようなことを言ってくるに違いない。

(主よ、今日は僕を窮地に追い込まれる日なのですか)

心の中でそう尋ねてみたが、回答が返ってくるわけもない。
舌打ちをして、如何に少女を傷付けずに悪魔を殺すかの算段を考える。

「二区は今日、聖裁予定外でしたね……逃げるには恰好の日。なれば問います、何故貴方は逃げたのですか」

方法が浮かぶまでの時間稼ぎに、何とはなしに聞いてみた。
神父の殺気が若干弱まったのを感じた悪魔は、ご丁寧に答えてくれた。
腕の中の少女は、微動だにしない。

「俺たち悪魔は、常に飢えている…人間にな。昔はそれこそ自由に喰えたのに、今じゃ召喚されない限り全く手に入らない!……だからさ」
「……またふざけた理由ですね」
「あんた方にすりゃそうかもしれないが、俺たちは生きながら殺されてるようなもんだ。こんな生活まっぴらって話だ!」

悪魔が熱く叫ぶたび、人質の少女は体を震わせた。
悲鳴が上がらないのは、脳があまりの出来事に麻痺しているからか。
可哀想という言葉が浮かんだが、実際そんなにそう思っていない自分がいることを、サキヤマは認識する。
これでは慈悲深い神父という名は、返上せねばならないかもしれない。
そんなことを考えながら、深海の闇を寄せ集めたような雰囲気の彼は、ゆっくり言葉を紡いだ。

「ですが残念ですね。お仲間は皆、居なくなってしまわれましたよ。貴方ももうすぐ、そこに行くことになりますが」
「それはないな」
「何故です?」
「あんただって馬鹿じゃねぇだろ?こいつが死んでみろ、あんた方ミュステリオンにとっては都合が悪くなる…それは避けたいだろ?」
「っ!」

悪魔が腕の力を強めると、少女は苦悶の表情を浮かべる。
一瞬サキヤマは顔を引きつらせたが、その直後──彼は口元を三日月の形にした。

「すみませんが、貴方は僕を甚く買い被っていらっしゃるようですね」
「……は…?」

サキヤマの表情の変化に、悪魔は目を見開く。
何故彼が笑うのかが、理解出来ないに違いない。
神父は笑顔のまま、話を続ける。

「僕は馬鹿ですから、唯一ある人の命令しか聞けないんです。それでその人が、言うんですよ。構わず始末してしまえって」
「!?」
「ですから、残念ですねと言ったんですが」
「ほ……本気じゃねぇだろ?何、とち狂った…」
「おや、全異端管理局は、皆して頭は可笑しい人間の寄せ集めですよ。勿論、この僕も例に漏れず、です」

そう断言すると、彼は余っていたチャクラムを両の指に挟んだ。
いよいよ悪魔は、目の前の神父が本気であると実感したらしい。
少女を捕らえたまま後退りすると、声の限り叫んだ。

「動くな!こ、こいつを殺」
「どうぞ、ご自由に。こちらは貴方を消すだけです」
「き、貴様っ…!!」

サキヤマの指から、チャクラムが離れる。
悪魔は自分を守ろうと、咄嗟に人質にしていた少女を盾にしようとしたが──

「やれやれ……道化を演じるのは、大変ですね」

……チャクラムは全て標的からは逸れて飛んで行き、サキヤマの指先へと戻ってきていた。
最初から彼は、狙っていなかったのだ。

「ぐぁ、ああああ!?」

だが、悪魔は身を捩って苦しみ悶えていた。
右胸から突き出ている、細長い棒のせいだ。

「お見事、シスター・エリシア」
「ふん?汝、余が居らなんだら、一体どうしていたことか…」

悪魔の背後、鳶色の髪のシスターが、サキヤマににやりと笑ってみせていた。