四章§17

「当然だけれど、その時の現実世界は今ほど発展した世界などではなかったわ。彼らは、勝利を確信していた……予想外の出来事が起きたのは、すぐのことだったの」

リベラルの声のトーンが、やや下がった。
ユリアは依然黙ったままだったが、彼女のその違いに表情を変化させた。
女王は一呼吸置くと。

「……彼らはたちまちのうちに精神世界の奥底へ閉じ込められ、支配されてしまった…ミュステリオンという最悪の機関に」

かたかたと、扇子を握る彼女の細い手が震えて、何かを恐れるように口調が早くなる。

「……まだ彼らを支配するだけならマシだったわ…奴らは、この世界すらも支配しようとし始めた…!」

だんっ!

扇子がテーブルに叩きつけられた衝撃で、カップの中の液体が跳ね上がった。
呼吸を乱し、彼女の女神の容貌が昏い怒りと沸き上がる恐怖に彩られていく。
陰欝な、老婆のような顔だ。
その気迫に、ユリアは声には出さなかったものの、心の中で悲鳴を上げた。

「陛下、お気を確かに」

隣に控えているリヒャルトが、震える女王の手を握り宥めた。
すると女王の形相が、見る間に元の麗貌へと戻った。
先程の面影など、一切ない。
大丈夫よ、と一言そう彼女は言うと、裡に溜まったものを吐き出すように深く溜息を吐いた。

「……驚かせてごめんなさいね、わたくし、どうもこのことを思い出すと、気が動転してしまいましてね……」
「……あ、いえ…」
「いいのよ。貴女にはそうして感情を表現する自由が、与えられていますもの。当然の反応よ」

平静を取り戻し、何処か冷めた瞳がユリアを見つめた。
それに対して、少女は何も言い返せず頷いた。
それからリベラルは、自分達を取り囲む花々を眺めながら、途切れたままの話を続けた。

「……ミュステリオンの介入によって、精神世界の不文律が狂いだした。この世界はね、とっても繊細な世界なの。精神世界といわれるように、デリケートで傷付きやすい、そしてひどく不器用で強かな愛しい人間の内面と同じなの」
「人の……内面」

小さく、口の中でその単語をユリアは繰り返した。
内面──ユリアにとって、とても馴染みのある言葉だった。
何故ならば、ユリア自身が“精神体”であるからだ。
リベラルの語るそれが、何だか自分のことを分析されているようで、歯痒い気持ちになった。
彼女はそれを知ってか知らずか、ただ首肯しただけで特に何も言わなかった。

「だから、突然現れた奴らに対して、この世界は耐えられなかった。美しかった街並は廃れ、咲き誇る花は枯れ、甘やかな香りは霧散していった…掻き乱されていく世界の悲鳴が、日々わたくしの耳を貫いて、離れてくれなかった…」

不意に思い出した、此処へ来るまでに見た建物。
そのどれもが古びていて、通りを寂しくさせていた。
あれらには、こうした理由があったのだ。

リベラルはリヒャルトに握られていた手を、逆に自ら強く握った。
心を落ち着かせ、再度感情に振り回されぬよう、強く。

「……わたくしは、もういてもたっても居られなかった。愛した世界が、これ以上傷付いていってしまわないために、手を打つ必要があったわ…わたくしだけにしか出来ない、最良の方法ですわ。彼──儀式屋に頼み込んで、わたくしは自らの自由全てを犠牲にして、」

ふっ、とリベラルは握っていた手を離した。
そして一度、彼女は目を閉じるとすっと開眼した。

そこから覗く瞳は、確かな自信と強さを持ち合わせた、冷徹な光が宿っていた。
それは、並々ならぬ覚悟をした者にしかないものだ。
ユリアはそれに吸い込まれるようにして、呼吸すら忘れたかのように見入った。
真紅の麗人が次に口にする言葉を、早く聞きたくて仕方がなかった。
先程までとは違う、腹の底から突き上げてくる高揚感。

真っ赤な口唇が、言葉を形作った。

「……わたくしは、この世界のルールになりましたの」

そう、女王は事も無げに告げた。

四章§18

──『儀式屋』

「姐さん……ユリアちゃん、大丈夫なんすかね?」

カウンターに突っ伏し、ヤスは気だるげにそう問い掛けた。
店自体はいつも通り開店しており、ぽつぽつと客人が足を運んでくる。
もとより活気付いている店ではないが、今日は平素より格段としんみりとしていた。
いつもならばヤスの隣に彼より頭二つ分低い少女が、今日はいないためだろうか。
ユリアの存在感の大きさに驚きながら、問い掛けの答えを彼は待った。

「何を不安に思うことがあるのよ?大丈夫、何とかなるわよ」

カウンター上の、客の側からは陰になる位置、卓上鏡の中から金髪の美女がそう返した。
あまりにもあっさりした回答だったため、ヤスは上体を起こしてそちらを見た。
アリアはその理由に気付いたらしく、やや面倒そうに答えた。

「あのね…あの奥様のところに行ったのよ?彼女、ユリアちゃんのことはきっと気に入るわよ。根本的なところで、あの魔術師と同じだもの」
「や、でもっすよ?あそこらへんは…」
「だったら何のために、うちの店長代理は飛び出していったのかしらね?」
「………うっ」

返事が呻き声だったのは、その理由がよく分かっているためだろう。
あーとか、うーとか、ヤスが唸っている間に、アリアはカウンターに置かれたままの菓子箱に目を留め、ふっと笑った。


『ごめん、俺ちょっと急用思い出したから』


そう言い置いて、座ってから十分も経たぬうちに出ていった男。
彼の主人は、一体どうやって彼をけしかけたのだろうか。

(なかなか動きたがらない子なのにね…)

突き動かしたのは、やはりあの少女を思う気持ちか。
そうだとしたら、何だか愛しさが込み上げてきて、自然とアリアの口元に笑みが浮かんだ。
もしかしたら、これを機に少しは変わってくれるかもしれない。
幸せな絵空事の残り香を胸いっぱいに吸い込んでから、アリアは自分を呼ぶ茶髪の青年を見た。

「……姐さんは、あいつが変わるって思ってるっすか?」

二人きりの部屋に響いた声は、ひどく乾いたものだった。
アリアは深海の美をすべて集めたろう瞳を、柔らかい形に変えた。

「勿論よ」
「本当に?」
「えぇ…だって私、あの子を信じてるもの」
「そうっすか……そう、っすよね!」

美女の回答に何かが吹っ切れたのか、ヤスは力強くそう言った。
同僚を信じるために、背中を押して欲しかったのだろうか。
とにかく、のっぽの彼は意気込むと、へらっと笑った。

「俺たちが信じてやらなきゃ、駄目っすよね!ね、姐さん!」
「そうね…だって──」

“私には、そのくらいしか出来ないから”

そう続けようとして、だが美女は思い止まった。
いつも鏡の中で見守ることしか出来ない自分。
だが、今はヤスも自分とは変わらないのだ。
外側から、二人を優しく見守ること。
だから、彼には言う必要ない言葉だ。
言うとすれば、“私たちには”と人称を変えてだ。
アリアは言葉の続きを待つようにしていた彼へ、何でもないと左右に首を振ってみせた。

「あ〜っ!!何かすっきりしたっす。よしっ、今日はユリアちゃんとJの分まで、俺が頑張るっすよ!」

椅子に思い切りもたれて伸びをすると、彼は姿勢を正した。
そんな彼にアリアはくすくす笑いを零すと、ちりんと音の鳴った扉を見た。
反射的に、ヤスもそちらを見ることになる。

「いらっしゃいま……」

いつもの挨拶、それが途切れたことに美女は眉根を寄せた。
入り口に背を向けている鏡では、相手を確認することが出来ない。
出来るのは、ヤスの表情だけで。
その彼の顔が、見る間に硬いものに変化した。
そして、素早く腰に装備していた剣を抜き去ると。

「……何の用っすか」
「おいおい、そう殺気立たないでくれるか?」

聞き覚えのある声、ああ、知っている、この声の主は──

「何の用かって、聞いてるんすけど?」
「そそっかしい男だな、君は……世間話のひとつやふたつ、出来なくては芸がないってものだ」

厄介な客が来てしまった、とアリアはそっと心の中で愚痴を零した。

四章§19

寸分の狂いなく、喉元へ突き付けた刃に、少し力を加える。
あと一押しすれば、首に新しい模様が刻まれることとなろう。
ヤスの問い掛けを無視して話していた男は、ゆるりと両手を上げた。

「分かった…話す、話すよ。だからその物騒なものを、私の首から遠ざけてくれないか」
「……仕舞いは、しないっすからね」
「どうぞご自由に。その刃物が届かなければ、私は構わんとも」

黒い瞳を細め、慎重に剣を男から離す。
何か妙な動きをしたらすぐ斬れるよう、その距離だけは保ってだが。
男はそっと首を撫で、その手に何も液体が付着していないのを確認すると、ほっと息を吐いた。

「全く……あいつといい君といい、何故此処では頭に血が上りやすい奴しかいないんだか……ああ、それで話だったな」

ぶつくさ文句を男は口にしたが、ヤスの視線に圧されて、ひとつ咳払いをした。

「分かってるだろうが……“あいつ”を貸してくれないか」
「……今は、いないっすよ」

想像していた通りの内容で、ヤスはやや諦め気味に溜息を吐いた。
この男は、いつもそうなのだ。
男は虚を突かれたような顔をしたが、直ぐ様表情を戻して。

「なら、帰ってきたらすぐ、」
「悪いっすけど、儀式屋の旦那に聞かなきゃ分からないっす…旦那も今日は出払ってるし」
「何、彼なら大丈夫だ。今回の話にはきっと全面協力をしてくれるはずさ」
「……どういう意味っすか?」

やけに自信たっぷりに告げてきた男に、ヤスは懐疑的な視線を送った。
男は笑みを広げ、ヤスの方へ身を乗り出した。
自然と、アリアにもその姿が視界に入る。
後ろへと撫で付けられた白髪混じりの黒髪、薄く開いた目からはライトグリーンの瞳が覗いている。
男にしてはやや華奢な肩には、上等なコートが羽織られており、それには皺一つ見つからない。
コートの袖口から伸びる手袋を、口元にあて小声で呟く。

「……うちの周辺に、妙な奴がうろついてるんだ」
「それがどうかしたんすか?」
「君、分からないのか?うちが何を扱ってるのか…!」
「………、コレクション…すか」
「そうだ。彼が放っておく訳あるまい?」
「でもそれが、旦那のに関係あるん」
「可能性があるのなら、彼は必ず私に協力するとも」

しつこく言い寄る彼に、ヤスは困惑気味な視線を鏡の中へ送った。
と、それに気付いた男は、アリアが何か口を開く前に。

「これはこれは!我が麗しのアリアじゃないか!相変わらず、貴女のお美しさはご健在のようだ……いや、歳を追うごとに、貴女は太陽のように輝いている…!」
「……あら、ありがとう…アンソニー」

鏡の中の美女は、やや疲労を滲ませた表情を作った。
厄介な客ことアンソニーは、それに気付かぬのか、口角を緩ませ鏡の中を覗き込む。

「嗚呼、アリア。貴女なら…貴女ならば、いかにこれが重要なことか理解してくれるはずだ」
「……そうねぇ、でも私には何の権限も」
「いいやアリア!賛成してくれるだけで良いのだ、私にはそれだけでも救いとなるのだから…!」
「……ならこうしましょう、アンソニー」

大袈裟な動作で訴えかけてくる男を無下には出来ず、小さく溜息を吐き出す。
そして、エメラルドよりなお明るい瞳を、深海を模した目が捕らえる。
きらきら輝く唇を、三日月の形に整える。

「その件、一応預かることにするわ…それで儀式屋が戻ってから、折り返しお返事させてもらうの…どうかしら?」
「ああ、いいとも!他でもないアリアの提案だ、それで構わないとも!」

アンソニーが大仰に頷いてみせたので、アリアは一度目を閉じると、呆然として成り行きを見ていたのっぽの彼に苦笑してみせた。
その苦笑いにヤスははっとさせられ、罰の悪そうな顔で小さく頭を下げた。

(うっかりしてたっす…)

アンソニーが、ある意味あの魔術師以上に迷惑な存在だという事実。
忘れてはならなかったというのに。
アンソニーがアリアに──アリアという“存在”に、惚れ込んでしまっていることを。

四章§20

「さ、アンソニー。用が済んだのなら、もう帰りなさいな」

顔だけを覗かせる美女は、依然として帰る気配のない男を促した。
が、アンソニーは一向に動こうとはしない。
鏡面に映るアリアの頬へ手を添えると、元から細い目をより一層細める。

「ああアリア、ご存知かな?私は今もあの約束を守っているのだよ」
「……約束?」

決して触れてはいないのだが、何だか不愉快な気持ちになるので、アリアはそっと身を捩った。
するとアンソニーは手を離し、見せ付けるようにアリアに手袋をかざした。

「この、指を見てくれれば、分かるはずだ…!」

かざされた手、そのうち四本の指を派手なリングが飾っていた。
それを見て、アリアは柳眉を僅かに上げた。

「薬指……ね」
「そうだ!この指だけはアリア、貴女が私の元へと来てくれるまで、何も付けないつもりなのだよ!」

一本だけ寂しい指。
他の指が飾り立てられているせいで、余計に目立っている。
しかしそれを、誇りだとでもいうように彼は見せびらかす。
そんな男に、心底うんざりしたような顔をアリアは向けると。

「アンソニー…私は貴方の、コレクションの一部になるつもりはないのよ」

──コレクション。
アンソニーにとってそれは、生き甲斐である。
何故なら彼は、精神世界きってのコレクターなのだ。
その収蒐品の数は膨大で、彼の右に出る者は誰一人としていない。
また自分の物以外、つまりは他人のコレクションの管理も請け負っており、儀式屋も利用しているのである。
そんな彼が今も昔も執心しているのが、アリアなのである。
何とかして自分の物にしようとしているらしく、毎度様々な手段を用いて迫ってくるのだ。
だからアリアにとって、全く以て迷惑な存在なのである。

「アリア…何ということを言うのだ……私は本気だ。貴女と、結婚したいんだ。それを示すために、もう50年、指輪を薬指だけにはしていない」
「嘘おっしゃいな。貴方は私を手に入れたら、その辺のコレクションと同じように飾って、一瞬の喜びを感じていつか忘れるのよ」

だって、とそこで一度言葉を区切り、これから死刑宣告でも受けるような顔をした男に、ルージュの唇を割いた。

「喋る鏡だなんて、またとない程の珍品だものね。喉から手が出るほど、欲しいのでしょう?この面白い玩具が」

アリアが自分のことをそのように例えたものだから、ヤスは笑いを堪えるのが必死だった。
対するアンソニーは、額に手をあてるとよろよろと後退した。
それから、心底落胆したような声でこう言ってきた。

「ああアリア…もし私が貴女に触れることが出来れば、優しく抱き締めて貴女に私の愛を示せたのに…!」
「……それはそれで嫌ね」
「しかしいいのだ…貴女はまだ此処を離れるつもりはない、ならば私が会いに来れば済むことなのだから…!」

一人で落胆し、一人でどん底から這い上がると、男は急に居住まいを正した。
そして、恭しそうに手を胸に当て頭を下げる。

「では今日はこれで失礼しよう…ああアリア、気が変わればいつでも私のところへ来てくれ。それじゃ、頼んだよ」

そう述べると、彼は右へ回れをして、店内から立ち去った。
同時に、のっぽの彼の口から大きな溜息と、美女のくすくす笑いが部屋を満たした。
構えたままの剣を鞘へ戻すと、ヤスはアリアの方へ向き直る。

「……すみません、姐さん」

口を突いて出たのは、謝罪だった。
鏡の中に住む彼女は、きらきらした瑠璃の瞳を目一杯に見開く。

「その、あんまりあの人に会わせたくなかったのに」
「いいのよ、ヤス君。どっちにしろ、彼、そのうち私を捜し回ってたでしょうしね」
「……そうっすか?」
「そうよ、にしても…あの子を借りに来るなんて、久しぶりね」

放っておけば何時までも謝ってきそうな彼を、無理矢理違う話題へ引き込む。
すると、ヤスは気付かぬままそちらへと意識を向けた。
やや眉間に皺を寄せ、困ったように首を捻る。

「やっぱり…まずい、んすかね」
「さぁね…でも、」

と、アリアが続けようとしたところで、来客を知らせるベルが鳴った。
見れば、今度は普通の客人だ。
慌ててヤスが接客を始めたため、アリアはその続きを口にすることは、ついになかった。
前の記事へ 次の記事へ
カレンダー
<< 2008年10月 >>
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31
プロフィール
奇吏斗さんのプロフィール
系 統 普通系
職 業 教育・福祉
フリーページリスト