階段を上る途中で、ユリアは不安に思う。
やはりJは、無理をしていたに違いない。
大体、あんなにぼろぼろなのに、何処が大丈夫などといえるのだろう。
あの服に付着していた血は、きっと彼のものだ。
ほんの少し、彼が黙っていたことに、何故だか胸の奥が苦しくなった。

(とにかく、儀式屋さんに知らせなきゃ…きっと儀式屋さんなら、なんとかしてくれる)

最後の一段を上り切り、床に足を掛けて廊下を駆け足で渡る。
二階の南棟、その奥の部屋が儀式屋の私室。
長く伸びる木目に添うように進み、儀式屋の元へ。
が、ユリアは急にその行動を妨害された。
どんっと、何かにぶつかり尻餅をついてしまったのだ。

「いたた…あ、すみません儀式屋さん……え?」

ぶつかった感触からして、壁ではなく柔らかいものだった。
となればそれは、誰か人と接触したことになる。
ヤスとJは一階にいるし、サンの行方は分かっていない。
ということは、二階にいるはずの儀式屋が残る。
だから少女は、彼の名を出して謝ったのだ。
だが、すぐにそれは間違いだと気付く。

目の前には、最前まで床に倒れていた、人物。

「J……さん…?」

やや薄暗い照明の中、見上げた先に居たのはは、紛れもないJだ。
しかし少女は違和感を覚える──これは、知っている彼ではない。
何が違うのか、じっと見つめてユリアははっとした。

前々からやけに鋭いと思っていた歯が、上下共に更に鋭く伸びているのだ。
悪戯な光を称えていた金瞳は、瞳孔が見開かれている。

その様はまるで獰猛な──獣。

「どう、したんです、か…?」

いつの間に現れたのか、などはどうでも良かった。
というよりも、思考がそこまで追い付かない。
何かが、心の奥底から喚いている。
ユリアはこの感覚を知っている、自分が此処へ来ることになった原因、その時に感じた並々ならぬ、恐怖だ。
床に置いた手が、じっとしない。

「……………」

見下ろしてくる彼は、微動だにせずユリアを見つめている。
と、彼は一歩踏み出した。
びくっと、ユリアは体を震わせた。
そして、小刻みに動く手で必死に床を押し、その“生き物”から離れようとする。
だが上手く手は動いてくれない。
手から分泌された汗で滑る。
その間に、元々短かった距離はすぐに詰められ、伸びてきた手が、ユリアの肩を掴んだ。

「!いや、離して!」

ぱんっ、と手を叩いた。
一瞬、手は離れたが、今度はより強い力で掴まれた。
その強さに、ユリアの肩は悲鳴を上げた。

「痛っ…やめて、Jさん!」
「……………」

名を呼ぶ、だが答えてはくれない。
そのまま彼は身を屈めると、反対側の手でユリアの首筋をゆっくり撫でる。
真っ赤な舌が、長い牙を舐めた。
彼の顔が近付き、ユリアの首筋に熱い息がかかる。

「あ……あ…」

ユリアの思考が、Jのその行為を見て一つの可能性に思い至った。
まさか、彼は──

「貴方…吸血鬼、なの…?」

小さな小さな声。
それが、Jの動きを止めた。
彼の血色の髪が、揺れる。
何の反応も示さなかった彼が、その単語に反応した。
もしかしたら、正気に戻ったのだろうか?

「Jさっ…!!」

だがその一縷の望みは、簡単に崩れた。
思い切り押され、強かに頭を床にぶつけた。
次いで肩を押さえていた手が、今度は首に回された。
きゅっと力を込められ、呼吸が苦しくなる。
やめて、と手をばたつかせたが、彼は止めようとしなかった。

「か…はっ…」

擦れた声が、頼りなげな光源に照らされた廊下に響く。
荒い呼吸を繰り返し、繰り返し、意識を途絶えさせるまいとする。

再び、汗ばんだ首筋に彼の吐息がかかる。
このままでは、いけない。
だが、どうすることも出来ない。
彼の口腔が開く、牙の先端が触れる。
それが絶望的で、ユリアは抵抗するのを止めた。
同時に少女の瞳を涙が覆って、目を閉じれば頬を伝った。

だがその凶器-牙-が、とうとうユリアの首筋に噛み付くことは、なかった。