流石に真昼近くでは、春とは言いがたい暖かさだ。
もう初夏といってもいいくらいだろうか。
陽光は深海のような髪を煌めかせ、彼はそれを横へ払う。
その時に触れた首筋が、しっとりと濡れていた。
それはきっと、暑くなってきた気温のせいと、今の“この状況”に至るまでの行程のせいだ。
「シスター・エリシア、一つ宜しいですか」
出した声は、思ったよりもかりかりしたものだった。
その原因に、彼は気付いている。
本来ならば抑え込んだのだが…こればかりは、一言、言わずにいられなかったのだ。
「申せ、サキヤマ」
返ってきたのは、自分の背後に佇む陽気な相方の声。
この暑さなど物ともしていない、否、寧ろ取り込んでいるのかもしれない。
サキヤマ、と呼ばれた青年は、サングラスのブリッジを押し上げる。
「我々の服務規程、貴女にもう一度ご説明したい気分なのですが?」
「ふむ、それは有り難いな」
だが、と漆黒に白のラインが入った尼僧服の袖を捲り、サキヤマが口を挟もうとするのを遮る。
青年は背を預けたシスターが、上機嫌に笑っている様を容易に想像出来た。
そしてこのあと続くだろう言葉も予想でき、心底嫌気が差してしまった。
晴れ上がった空が、この上なく妬ましい。
「それは此処に集まった悪魔を、懺悔させてからだ!」
嗚呼、やはりそう来た。
エリシアの、もう楽しくてたまらないといった様子とは反対に、神父サキヤマは面倒臭そうに溜息を吐いた。
それから…自分たちを取り囲む、大勢の飢えた目つきの悪魔たちを見て、もう一度だけ嘆息を吐き出した。
──遡ること一時間前。
午前中では一番忙しくなるだろう時間、それでいてまだ陽もそれ程高くない頃。
背の高い神父と尼僧は、第七収容区の地を踏んでいた。
収容区とはいえ、金網などで柵が施されてはいない。
ただ悪魔が棲んでいるだけで、現実世界と何も変わらない、普通の街で普通の区なのだ。
これならば逃げ出せないこともないのだが、それは不可能だった。
悪魔たちには一人一人、専用の番号が振り分けられている。
脱走しようものなら、その番号がすぐさま、それぞれの区に設置された監視塔へ通達される。
そしてそこにいる監視者たちが、処罰にかかるのだ。
無論、それはエリシアたちにも通達されるため、応援に駆けつけることもある。
だがそれは、本当に稀だ。
何故なら“聖裁”があるからだ。
「シスター・エリシア、よく聞いて下さい」
「何だ今更」
「対悪魔への聖裁は、視察と変わらないものですので…」
「またその話か。サキヤマ、汝は余を馬鹿にしておるのか?」
「そうではありません」
煉瓦で舗装された道を歩きながら、サキヤマは今にも激昂しそうなエリシアを宥める。
確かに此処へ来るまで、彼は散々それを口にしていた。
彼女が怒るのも、無理はない。
だがそれでも再三再四、同じことを繰り返すのは、一抹の不安が頭を掠めるからだ。
過去の経験が、嫌と言うほど味わった苦難の数々が、サキヤマの中で幾つも思い起こされては、警告を促す。
(主よ、どうか、どうか今回こそは、エリシアが僕の話を頭の片隅に、ほんの少しでも置いていてくれますように)
何度も祈りを捧げて密かに十字を切り、「では、二手に分かれましょう」と彼は言おうとした。
が、隣を見た彼は目を丸くした。
いないのだ、今さっきまで此処にいたシスターが!
ぐるりと周囲を見渡したが、何処を見てもあの短気な尼僧はいない。
(何処に!?)
まさか初っ端からこんなことになるとは…そう、彼が頭を抱えていると、今度は何処か遠くから、凄まじい音が聞こえた。
それは、神父の顔を一瞬にして真っ青にさせる威力を持っていた。
だがすぐに、彼は諦めとも決意ともつかぬ表情で、その方角を見据える。
(祈り、届きませんでしたか?)
色素の薄い瞳を守るためのサングラスをきっちり掛け直すと、彼は煉瓦の地を蹴り駆けた。