三章§08

流石に真昼近くでは、春とは言いがたい暖かさだ。
もう初夏といってもいいくらいだろうか。
陽光は深海のような髪を煌めかせ、彼はそれを横へ払う。
その時に触れた首筋が、しっとりと濡れていた。
それはきっと、暑くなってきた気温のせいと、今の“この状況”に至るまでの行程のせいだ。

「シスター・エリシア、一つ宜しいですか」

出した声は、思ったよりもかりかりしたものだった。
その原因に、彼は気付いている。
本来ならば抑え込んだのだが…こればかりは、一言、言わずにいられなかったのだ。

「申せ、サキヤマ」

返ってきたのは、自分の背後に佇む陽気な相方の声。
この暑さなど物ともしていない、否、寧ろ取り込んでいるのかもしれない。
サキヤマ、と呼ばれた青年は、サングラスのブリッジを押し上げる。

「我々の服務規程、貴女にもう一度ご説明したい気分なのですが?」
「ふむ、それは有り難いな」

だが、と漆黒に白のラインが入った尼僧服の袖を捲り、サキヤマが口を挟もうとするのを遮る。
青年は背を預けたシスターが、上機嫌に笑っている様を容易に想像出来た。
そしてこのあと続くだろう言葉も予想でき、心底嫌気が差してしまった。
晴れ上がった空が、この上なく妬ましい。

「それは此処に集まった悪魔を、懺悔させてからだ!」

嗚呼、やはりそう来た。
エリシアの、もう楽しくてたまらないといった様子とは反対に、神父サキヤマは面倒臭そうに溜息を吐いた。
それから…自分たちを取り囲む、大勢の飢えた目つきの悪魔たちを見て、もう一度だけ嘆息を吐き出した。



──遡ること一時間前。

午前中では一番忙しくなるだろう時間、それでいてまだ陽もそれ程高くない頃。
背の高い神父と尼僧は、第七収容区の地を踏んでいた。

収容区とはいえ、金網などで柵が施されてはいない。
ただ悪魔が棲んでいるだけで、現実世界と何も変わらない、普通の街で普通の区なのだ。
これならば逃げ出せないこともないのだが、それは不可能だった。

悪魔たちには一人一人、専用の番号が振り分けられている。
脱走しようものなら、その番号がすぐさま、それぞれの区に設置された監視塔へ通達される。
そしてそこにいる監視者たちが、処罰にかかるのだ。
無論、それはエリシアたちにも通達されるため、応援に駆けつけることもある。
だがそれは、本当に稀だ。
何故なら“聖裁”があるからだ。

「シスター・エリシア、よく聞いて下さい」
「何だ今更」
「対悪魔への聖裁は、視察と変わらないものですので…」
「またその話か。サキヤマ、汝は余を馬鹿にしておるのか?」
「そうではありません」

煉瓦で舗装された道を歩きながら、サキヤマは今にも激昂しそうなエリシアを宥める。
確かに此処へ来るまで、彼は散々それを口にしていた。
彼女が怒るのも、無理はない。
だがそれでも再三再四、同じことを繰り返すのは、一抹の不安が頭を掠めるからだ。
過去の経験が、嫌と言うほど味わった苦難の数々が、サキヤマの中で幾つも思い起こされては、警告を促す。

(主よ、どうか、どうか今回こそは、エリシアが僕の話を頭の片隅に、ほんの少しでも置いていてくれますように)

何度も祈りを捧げて密かに十字を切り、「では、二手に分かれましょう」と彼は言おうとした。
が、隣を見た彼は目を丸くした。
いないのだ、今さっきまで此処にいたシスターが!
ぐるりと周囲を見渡したが、何処を見てもあの短気な尼僧はいない。

(何処に!?)

まさか初っ端からこんなことになるとは…そう、彼が頭を抱えていると、今度は何処か遠くから、凄まじい音が聞こえた。
それは、神父の顔を一瞬にして真っ青にさせる威力を持っていた。
だがすぐに、彼は諦めとも決意ともつかぬ表情で、その方角を見据える。

(祈り、届きませんでしたか?)

色素の薄い瞳を守るためのサングラスをきっちり掛け直すと、彼は煉瓦の地を蹴り駆けた。

三章§09

件の方角へ向かう途中、サキヤマは妙な感覚に陥っていた。
というのも、エリシアを探している今、一度も悪魔に出会っていないのだ。
此処へ来たときこそ和気あいあいとはいかないが、そこそこに悪魔を見かけた。
それが今、全く会わない。

(……まさか、いえ、エリシアならば…)

最悪のケースが浮かんでしまって、ぎりっと奥歯を噛み締めた。
頼むから外れてくれ、と細い路地を駆け抜けた。


ところで、サキヤマの不安を煽っている元凶ことエリシアはといえば。

「おい、そこのハゲ」
「あ?」

…サキヤマが何やら考えごとに耽った、数秒。
何が起こったのか、エリシアはくるっと身を翻し、今し方すれ違った数人の悪魔を追った。
本当ならすぐさま捕まえて、殴り倒すところだが、サキヤマの考えごとの邪魔になるだろうと配慮し、十分距離を取ることにしたようだ。
妙なところで気を遣うエリシアである。

表通りを一歩脇に逸れると、閑散とした場に行き着いた。

(随分と荒廃したとこだな…)

表通りは貧相とはいえ、まだ賑わいを見せていた。
田舎の繁華街といったところか。
それに比べて此処は、もう使い古された廃材やら、瓦礫やらが乱雑に放置されていた。
だが此処ならば、もう神父の邪魔もしないだろう。

「おい、そこのハゲ」

そう思い、シスターは一番目立つスキンヘッドの巨漢に声を掛けた。

「あ?」

ハゲと呼ばれた彼は、首を己の背後へ巡らせた。
それに倣うように、残りの悪魔もこちらを向く。

「なんだこいつ、シスターじゃねぇか」

口を開いたのは、巨漢の右側にいたひょろ長い男だ。
エリシアはちらりとその男を見てから、巨漢を睨み上げるように見る。
スキンヘッドの男は、訝しそうにエリシアを見下ろす。

「シスターが俺たちに用か?」
「そうだ。悪いが、そこの金髪を貸せ」
「へ?ぼ、ぼく…?」

呼ばれたのは、巨漢の後ろに隠れるようにしていた、金髪のわりと背の低い少年悪魔だ。
おどおどしたように彼は、スキンヘッドの男を見上げる。
巨漢は頷くと、一歩前へ進み出る。

「何故だ?」
「汝には関係ない。余は、そいつにだけ用がある」
「理由なしには、取り合わせん」
「……良い、話してやる」

エリシアはふんっと鼻を鳴らすと、右手に提げていた細長いそれを、金髪の悪魔の顔へ突きつけた。
ひぃっと、息を飲んだ悪魔に、にやりと笑いかける。

「先程擦れ違った時、汝はよくも余の足を踏みつけたな?その礼を、返しに来た!」
「若っ!」

エリシアは言い切ると同時にそれを振り上げ、勢いよく金髪悪魔へ振り下ろした。

だが、それは届かなかった。
巨漢が、受け止めていたのだ。
すぅっと視線を上へあげると、薄い金に近い瞳と交わる。
その瞳には、先程までなかった冷徹な輝きが見えた。

「歩いていれば、そのように足を踏むこともあるだろう。なれば、謝れば済むこと…暴力を振るうなど、無礼にもほどがある!」
「無礼…?余を誰だと思っている」

巨漢の言葉に、エリシアは反応した。
反動をつけて彼らから離れると、冷めた灰色の瞳を細めて己を指す。

「余は、ミュステリオン全異端管理局の、シスター・エリシアなるぞ!」
「……サム。若を連れて車の方へ行け」
「お、おいジュード…」
「早く!相手はあのシスターだぞ!」

巨漢ジュードは、サムと呼んだひょろ長い悪魔を叱咤した。
サムは無言で頷くと、「若様、行きますぜ」と震える彼を引き連れて二人から離れる。

それをエリシアが許すはずがない。
地を蹴り、逃げる一行へ襲いかかる。
それを上回るスピードで、ジュードがエリシアの行く手を阻む。
その勢いに任せて、ジュードは拳を放つ。
エリシアは舌打ちをすると、それ以上進むのを止め、一度引く。
そのまま後ろへ跳躍し、廃材の上に着地すると振り返った。

「……良かろう、先に汝からだ。名乗れ」
「…ジュード。若様の、ボディガードだ」
「そうか…ならば、ジュード。参るぞ!」

叫ぶと、攻撃的な尼僧は廃材を蹴散らして飛びかかった。
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