だがその手がアリアに触れることは、なかった。

「おおっとー…?」

サンは少し驚いた声を上げ、上体を反らした。
伸ばした腕はJがしっかりと掴み、顎の下には短刀をヤスが突きつけている。

「……あれかな、お姫様には触っちゃダメってこと?」
「いくらサンさんでも、これは許さないっす」
「…儀式屋が来る前に、何とかしたら?」

違うことを口にしていても、殺気が隠っていることに変わりはない。
アリアの震えは止まっていたが、じっとことの成り行きを見守っている。

「あはっ、ヤだなぁみんなってば。お遊びだよ?…いくら僕でも、干渉域はちゃあんと分かってるよぉ」
「なら、態度で示すことだね」
「あ、痛い痛い。名無しクンてば、バケモノなんだから手加減してよぉ」

ぐっとJが腕に力を込めると、痛みを訴えすぐさま腕を引き抜いた。
ぱっと離れた腕をさすりながら、サンは鏡の方へ顔を向ける。
まだ警戒を解かない深海の色をした瞳が、見つめ返してくる。
魔術師は、肩を竦めてみせた。
だが決して、それは諦めたという意味ではない。

「……、“このこと”のお話はあとにするね。僕、もう一つ訊きたいことがあったんだー」

再び口元に笑みを乗せると、一歩下がって視界に三人を入れる。
二人はアリアを守るように、鏡に背を向け立つ。

「とても悲しい悲しいお話なんだけどね。僕は人間が大好きだし、この世界じゃあ優しくしてあげてる方なんだよね」

更にまた一歩下がる。

「だから僕はよく手を差し伸べてあげる…なのに、よく裏切られるんだよねぇ。僕はいつもそれで悲しい思いをしてる…」

実に悲しみをたっぷり含んだ声で、サンは語りながらまた、下がる。
その動きに、ヤスは眉を潜める。
何故、下がるのだろう?

「でも、僕はその人間に手を下すことが苦手だ。だから代わりに、いつも儀式屋クンにしてもらっている」

あと一歩だけ後退すると、ぴたり、とそこで立ち止まった。
そしてにっこり、今まで以上に綺麗な笑みの形を作った。
だが黒い唇から紡がれる言葉は、毒のようなもの。

「そう、でね?昨夜も一人罰したって儀式屋クンが言ってさぁ?なのにねぇ…その内容、教えてくれなかったんだ」
「へぇ?で、魔術師は何が言いたいのさ?」

Jは内心苛々して来ていた。
サンの、ゆっくりと語る口調が気に食わなかった。
だがそんなものを表面に出すことは、決してしない。

「昨日のこと、聞いてないかな?彼から」
「…聞いてないね。てか儀式屋が罰したんだ、何故内容が気になるのさ?」

それ以上深入りはさせないよう、さり気なく話題を逸らした。
サンは気付いていないのか、それともわざとなのか、その話題に乗ってみせた。

「いつもならね、儀式屋クン、報酬のアレを欲しがるのにさぁ、いらないって言うんだ。で、もしかしたら、ここに匿ってるのかな?と思って、ね…精神だけの14歳の可愛い子を、さ」

──完全に知った上で聞いているではないか!
アリアはきゅっと唇を噛み締め俯く。
きっと“このこと”さえも、既に気付いている。
ただ、手を出せないのは、彼の干渉域を越してしまうから。

ヤスとJも同じなのだろう。
若干険しい表情に変化していく。

「…見つけて、どーするつもり?」

それでも平常心を保って、静かに問う。
サンはぞっとする程綺麗な笑顔のまま、丁寧にその問いに答えた。

「完全抹消、するんだよぉ」
「──!!」

魔術師は答えると、後ろ手に背後にあった扉を開いて、その向こうへ姿を消した。
それを見たと同時に、ヤスの足は勝手に部屋を飛び出した。

「ヤス君!……!……!!」

後ろからJが何か叫んだようだが、その時にはもう聞こえていなかった。

(いない!?)

彼を追ってすぐに出たものの、サンの姿はない。
耳を澄ますも、足音は全く聞こえない。
ヤスはぎりっと奥歯を噛むと、廊下を蹴って走り出した。