そんな美女の気持ちを知ってか知らずか、闇色の男はにやりと笑うだけで、何も言わなかった。
今そのことについては言うことはない、とでもいいたげだ。
アリアもそれを感じ取ったのか、じとっとした眼差しで儀式屋を見ていたが、不意にふぅと息を吐き出した。
この男が絶対に語ろうとしないことを語らせようとすれば、何年かけて説得しなくてはならないかを鏡の美女は知っているからだ。
諦めて彼女は、それで?と先を促すように儀式屋に尋ねる。
疑問符を投げ掛けられた彼は、漸く反応を返した。

「それで、とは何かな?」
「だから、私へのお小言はそれくらいなのかしら?」
「小言を私は言った覚えはないのだがね。……もう行くのであれば、くれぐれも見付からないようにしておくれ」
「大丈夫よ、誰も私を捕まえられっこないんだもの」

綺麗にアリアは笑ってみせると、儀式屋は観念したかのように肩を竦ませた。
それは言い換えれば、彼なりの許可の証だ。
有難う、と佳人が礼を述べた時、扉がノックされ、儀式屋が入室を許す言葉をかける前に誰かが入って来た。
この、ノックはすれども無断で入るような真似をするのは、この店に一人だ。

「アキ、もう少し君は礼節というものを学習すべきじゃないかな」
「……悪かった」

ぽつりと、相変わらず生気のない声で、相変わらず光のない目で、アキは謝った。
基本的にアキという男は、礼節だのマナーだのは気にしないため、ノックしただけでも及第点といえよう。
まだ午前中だというのに、既に疲れ切った風体の彼はゆっくり儀式屋に近付いた。
ふらふらと揺れるアキを見つめながら、儀式屋は口を開いた。

「私に用事かね」
「昨日、言ってた、こと」
「ああ、あのことだね」

と言いつつ、彼は背後の美女を振り返った。
途端に、美女は不満そうに儀式屋を見返した。

「何よ、私がいたらお話が進まないのかしら?」
「……いや、構わないのだよ。どうせいつかは君の耳にも入るのだからね。ただ──」

そこまで言って、彼は一度口を噤んだ。
そして、何やら意味ありげな怪しい笑みを浮かべるのである。
そんな儀式屋をアリアは睨み付けて、早く言えと脅す。

「──ただ、聞いたら君が大層怒るだろう、と思ってね」
「あら、怒るのは貴方のためよ」
「やれやれ、怖いお姫様だね。さて、アキ、そういうことだから気にせず話してくれたまえよ」
「分かった。ユリアを亡霊街に、連れてく、話だが、」
「ちょっと待って、ユリアちゃんを亡霊街に連れて行くですって!?」

儀式屋から許可が下りたことで漸くアキは話し始めたが、アリアの素っ頓狂な声に再度遮られてしまった。
アキは数回瞬きをして、不思議そうに首を傾げた。

「そうだが、ダメ、か?」
「アキ君、貴方分かってる?ユリアちゃんは今、あの奥様のところにいるのよ!?」
「うん」
「それを連れて行くだなんて、無謀にもほどがあるわ!しかも亡霊街!儀式屋、貴方も何でそんな悠長に構えちゃってるのよ?」
「おや、聡い君でも分からないこともあるのだね」
「どういう意味よっ」
「私がアキに命令したのだ、ユリアを連れて亡霊街に行くようにね」
「…………………」

さらりと儀式屋が述べた言葉に、アリアは目を回しそうになった。
この男は、まだ二日かそこら前の自分の言動を、もう忘れたとでも言うのか。
もしそうなら、世も末だ。
鏡の美女の顔色が一瞬にしてなくなったのを見て、彼女のそんな思考を儀式屋は読み取ったらしい。

「心配しなくても、私はちゃんと自分が命じたことは覚えているよ」
「ああそう……だったらわざわざ遠ざけたはずのユリアちゃんを連れて行くだなんて、どういうお考えなのかしら?ご教授いただける?」
「ユリアが来た頃に君に話したことを、覚えているかね?」

そう問われて、数ヶ月前の記憶をアリアは引っ張り出した。
ユリアが眠っている時に、儀式屋が話したこと。
俄かに、美女の顔が曇る。

「……ユリアちゃんが、いずれ必要になるって話かしら」
「ああ。つまりその時が、来ているのだよ」
「早すぎるわ、いくら何でも!」

もしアリアが鏡から出られたのなら、儀式屋に掴みかかって今の言葉を放ったに違いない。
そのくらい、彼女の今の声には凄みがかかっていた。