スタッフルームの鏡に映り込んだアリアは、丁度立ち上がりこちらを見たJと目があった。
そして彼は、アリアが言葉を発するために息を吸うより早く、口を開いた。

「分かってる」

どうやら、あの音はJにも聞こえていたらしい。
ソファへ横たえたアキを一瞥した後、瞬く間に彼は姿を消した。
アリアもそれに倣い、再びカウンター席へと戻る。
その時にはもう、Jは扉を開け放って外の様子を窺っていた。
いつの間にか夜の帳を下ろした世界から、獲物を見つけ出そうとその金の瞳を鋭利なまでに細める。
暗闇の隙間さえ逃さぬように注視するが、やがて不愉快そうに鼻を鳴らして頭を振った。
それから店内へ戻ろうとして、ふと彼は扉を見やった。

「………………」

扉の外側の把手が、僅かにひしゃげている。
その部分へと彼は手を伸ばし、握った。
その瞬間──

「っ!」

ばっと手を引っ込め、彼は険しい表情を作ると勢いよく扉を閉め、鍵をかけた。
そして盛大に何度目とも知れぬ溜息を吐いた。

「何?どうしたの、J君?」

やや不安そうな声音でアリアが尋ねる。
Jは何度か手を開閉させながら、アリアの視界に入り込む。
不機嫌さを微塵も隠さずに、彼はぶっきらぼうに口を利いた。

「悪魔だ」
「……え」
「悪魔。うちに入ろうとしたんだろうけど、儀式屋の結界が張ってたから諦めたんだろ」
「そんな……何で悪魔が」
「さぁ?でも、多分、誰かに召喚されてる奴だ」
「……どういうこと?」

佳人の眉が不可解そうにつり上がった。
Jは眉間に皺を寄せ、厳しい眼差しを足元へ投げかけた。

「こっちの悪魔なら、扉に触れた時点で苦痛を感じてそれ以上のことはしてこない。儀式屋の結界は、そういうもんだからね。でも、さっきのはドアノブを少しだけど変形させる力を持ってた。人間には不可能、もちろん悪魔にも。出来るのは、召喚され依代の体の悪魔だ」
「……じゃあつまり、現実世界の人間が、ってこと?」
「まぁそうかな。いずれにせよ、無理やり入ろうだなんていい考えの奴じゃないさ」

真剣な面持ちで告げた後、Jは己の掌を凝視した。
握った瞬間に伝わったのは、地獄の底を渦巻くような憎悪だった。
だが、悪魔自身から発されるものではなかった。
よりしろの体を通して発されている──つまり、悪魔を召喚した人間が持つ憎悪なのだ。
となれば、儀式屋にあるいは『儀式屋』に対して相当激しい感情を持つ人間がいる、ということである。

(一体、誰が?)
「でも、これでJ君はすぐには帰れなくなったわけね」
「……………は?」

あまりに唐突な話題転換に、かなりの間を置いてからJは反応した。
鏡に映る麗人は、それはそれは、何とも愉快そうな─ともすれば憎たらしいほどの─笑みを見せつけてくる。
すぐさま脳裏に、嫌な予感という文字がちらつき、吸血鬼は目を半眼にして美女を見やった。

「勤務時間中に不審な点が見られた場合は、儀式屋に報告する義務があるのよ」
「なっ……その肝心の儀式屋は、お出掛け中じゃないか!俺は暇に殺されろって?冗談じゃないね!」

見事予想的中で、目に痛い配色の髪の男は、ぎゃあぎゃあと喚きだした。
アリアは駄々っ子を見る目つきで彼を見つめ、やれやれと首を振った。

「あのねJ君。やることならたくさんあるわ。店内の掃除とか在庫の確認とか、そこの床を直すとか。時間は有効に使うべきよ」
「有効に?」

その単語に反応すると、打って変わって静かになり……二本の牙が唇から覗いた。

「……なら、もっといい使い方がある」
「…………まさか、今からさっきの奴を追い掛けるとか言うんじゃないでしょうね。それは、」
「アリアって本当に頭がいいよね!じゃ、行ってきま」
「待ちなさい!」

鋭い声音で制止をかけられ、流石に無視出来なかったのかJは動きを止めた。
何、と視線だけで尋ねると、アリアは声同様に厳しい表情で。

「……30分が限界よ」
「……、アリアが俺にも優しくてほっとしたよ」

金瞳を弧に描くと、再びJは行ってきますと呟いて、一瞬にして姿を消した。
アリアはJがいた場所を暫く見つめていたが、やがて小さく溜息を吐いて、つくづく自分は甘いのだと痛感した。