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ラストシーン





私は常に「おわり」を考える。
おわりというのは、別れであったり死であったり。おわりを拒否したり、嫌だと思うけれど、「おわりがある」のを知っているから、我慢というものができる。

命におわりがなかったら、とっとと自殺していただろうし、お腹が痛くなって、もしそれが終わるかわからなかったら耐えられない。
不死なら文化をつくらない。





楽しいときも、これもおわって思い出になっちゃう。とか
おわりを考える癖は、今あるものを見過ごしてしまうから、ほどほどにしたいのに。だけど、おわりがあることを実感していないと、大事にできない。ずっと一緒って知っていたら、ひとを大切にできない。



「死」というおわりを、よく考えている。自分であったり、他人であったり。繁華街から、暗い小路を覗くように。明るさのギャップ、生々しさ。闇があるから光がきわだって。だからやっぱり、「死」を知っているから、「生」を大切にできるのだと思う。死にたいとよく思うけど、それは自分が望まない避けられない「おわり」が嫌で、甘えで、傷つくのから逃げたい自己保身、なのかもね。
家族も多いかも。好きだから、余計に最期を考えてしまう。喪失感とか。想像力は豊かなほうだと自負しているけど、これは検討がつかない。発狂するかもしれないし、後を追うかもしれない…。どのくらい依存しているのか、最後までわからないだろうな。

大切なひとの死について妄想、それで自分の弱さと甘えを再確認して、寂しくて泣く。笑
失いたくないよう。って。






「高校一年生」のおわりについて書こうと思っていたら、ずれずれ。今度にしましょう。
あの空間、おわってから1ヶ月くらいだけど随分遠くなったなあ。戻りたくはないけれど、ぜったいに戻れないのがちょっとさみしい。
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