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持っている

やっていない時は「まあいいか」で済ませていることが、やり始めた途端に今までは何だったんだってなることがある。
運動、勉強、掃除など…。
明日でいいや、次の休みでいいやって思ってたことなんだけど、やると毎日やらなくてはもっとやらなくちゃって後悔。
それの繰り返し。
点検、吟味しなくちゃって思う事自体がそれも思い出しては忘れの周期だからなんだかなー



趣味がある人はいいなと思う。
好きなことをしている人を見ると、勇気づけられるというか、肯定してもらえる気になる。
顔も名前も知らない人でも、一瞬テレビに映るだけの人でも「私はこれが好きです」って宣言見るとすごいなーと思う。だから街頭インタビューとか結構好き(笑)
余裕がないと趣味がある人に対して嫉妬とか感じるけども…。お金や時間を惜しみなく注ぎ込める何かがあってずるいって感じで。



持つ前、持っている時、失った時
持つ前と失った時に価値が高く感じるから気軽に手放せない。物でも人でも。
実際手にしてそれ程大事じゃないと思った物でも、持つ前の気持ちがあるから見積もりを誤る。
値段が高いことと自分にとって価値があるかは別って、買う前ははっきりわかってるんだけどね…。
時間とか関係性もそうなんだよね。その最中にいる時には軽く考えるし、振り返ると美化する。
自分が中学生のとき、高校生になることはすごく楽しそうなことで、でも高校生になったら予想ほど楽しくないなって思って、卒業したら高校生って良かったなって思う。
先人の言う事聞かないというよりも現状を認識するのって簡単にできることじゃないし、大事にしようって自分から思わないと大事にしないからとても度々これも繰り返し。










結局のところ、階級社会は、貧困と無知を基盤にしない限り、成立しえないのだ。
一九八四年/ジョージ・オーウェル



いつか終わる夢

最近思っていること。
人はほめられたい、認められたいって思いが強いんだなあってこと。私も例外じゃない。


他人のために何かをすることが、自分を助ける結果になること。
お返しのような物を与えられる訳じゃなくて、精神的に支えられるのかもしれない。
社会に帰属してる意識が肯定感に必要なのかなーとか思う。
私は利己的な人間だから、ボランティアとかするくらいなら自分の趣味に時間を割けばいいじゃんって気持ちでいたけれど、限界があるというか、自分と関わるからの自分だけじゃなくて他人と関わるからの自分というか表現力不足と認識不足で上手に言えないけど
人の役に立つ事の意味が少しわかった気がする。


愚痴や批判には中毒性があること。
嫌いな物事や人に対して心の中でも批判すると、もっとしたくなるし正義感とか全能感のような物があるように感じてしまう。









昭和十九年―つまり終戦の前の年―の九月に、私は幼年時代からずっとそこにいた学校を卒業して、或る大学へ入った。有無を言わさぬ父の強制で、専門は法律を選ばされた。しかし遠からず私も兵隊にとられて戦死し、私の一家も空襲で一人のこらず死んでくれるものと確信していたので、大して苦にはならなかった。
仮面の告白/三島由紀夫




折り紙の本を見る。
ここ二週間のうちに本屋さんに行ってみたい。



美しいものを見たいと思っているのに、愚痴を探してしまう。
ネットをやっている時間でも癖があって回るサイトも時間も似たようなもので、自分でまたやってるって思う。
思考停止したくてネットを見ている部分があるから目的は達成しているのだけど、寝る時間を削ってまで見ているとなると自虐の域を越えるね。


姉の家の近くのランドリーを使ったら洗濯物がなんかくさい。
しまいたくないから部屋の隅にある(笑)












そして、あまりにも自分自身の言葉に気を取られすぎていたわたしは、ジュリエットの言葉のなかに、彼女が口に出さずにいることの意味をさとることができなかったのだった…
狭き門/アンドレ・ジッド



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