まず、最初に9月22日に書いた「6万人の力ができること」についてご不快な思いをされた方がいましたらお詫びいたします。

デモに参加された方は多分、嫌な思いをされるだろうなというのは解っていて書いたことですが、別にデモに参加した方々の思いを否定したわけではありません。

コメントに意見を寄せて下さった方がいてありがたく思いながら考えました。

私達の前を通り過ぎて行った方達の一部がゲームをしながら歩いている子供であったり、沿道でカメラを向ける人に笑顔で手を振りながら笑いかける人であったり、携帯でメールをうちながら歩いている女性であったり。
おしゃべりをしながら歩いていたり。
自分達の入っている集団ののぼりを原発反対ののぼりより高く掲げていたりまるでお祭りに参加している様に思えてしまっていました。

でも考えてみれば5万人の人が集まれば、いろんな人がいるのは当たり前で、真剣な人が殆どであったろうと思うと、一部の人を見てデモの参加者全てに疑問を抱くのは失礼であったと反省しています。

色々な立場の人がそれぞれが、勇気を持って集まって原発の恐怖の無い世界を、と願い、訴えた事はそれはそれで意義のあることであったと考えます。

私自身も原発の再稼動は反対ですし、原発を最終的に無くしていくことに異論はありません。

そのきっかけになったのであれば、デモも意味があることだと思います。


ただ、即物的な事を言うなら
「反原発のデモがあった。福島の事を思いやってくれている。嬉しい、ありがとう」
と思う福島県民はそう多くはないのではないでしょうか?

それは、今、福島の人の多くが日々の放射能や不安と戦うのが精いっぱいであり、
「まずは復興を、安心して暮らせる日々を取り戻したい」
と思っているからです。

脱原発の声が大きくなるに従い、救いを求める福島の声はかき消されつつありませんか?

さらに即物的な話になりますが、3月11日から9月までの間、福島県で働いて下さったボランティアさんの数は延べ12万人弱と発表されています。

そのうち半分強が福島県民。
県外からの方は6万人を少し下回ります。
デモに集まった方より少ないのです。

そう簡単には勿論行きませんが、もし6万人の方が一つずつがれきを片付ければ6万個のがれきが片付きます。

放射線の数値の高い公園で一本の草をむしれば6万本の草が公園から消えます。
6万人の人が、側にいる福島県民に声をかけ抱きしめれば6万人の人の心が温かくなります。

それで、どれだけの人が救われるかと考えると、私はデモ以外の道を選んでもらえないのかと思ってしまうのです。

これは、エゴでしょうか?

福島県から発信された反原発デモもありますし、9月19日のイベントで福島の方が語られたと言う言葉も、その通りだと思います。
(ちゃんとHP見ています)
それでも、まず、福島に『今、活きる人』を忘れないで、と願ってしまうのはあまりにも近くで今回の事を見過ぎてしまっているからかもしれません。

デモをされる方と、その行動、思いを否定は致しません。

私達にできない分まで声を上げて頂くこと、ありがたいと思います。

しかし、私がいつか、同じ立場になったとしたら、デモには参加しません。

それ以外の方法で、自分の手と、頭で何かできないか考えると思います。


デモについてのご意見を下さいました匿名希望様、ありがとうございました。