2020-7-10 21:49
去年の12月頃にぽちぽち打ってた文章が見つかったので、あげてみる。なぜ今いじめの話かというと、もうすぐ道徳なんだなぁ…。しかもやったことない社会正義の項目。教科書の題材はいじめ。
授業は来週末なんだけど、頭の内でねりねりしておかないと授業できないので。やるからには本質をついた授業をしたい。
この文章を書いた頃、教員いじめのニュースが世間を騒がせていて、それをきっかけにいじめに関する本を読んだという背景があります。
ちなみに全然まとまってないです。とっ散らかってます。だからお蔵入りになってた。
教員のいじめの話。
センセーショナルな話題ではあるけれど、何も意外なことではない。要するに教師も人間だってこと。
いじめは許されない…んだけど、そもそもなんで人はいじめをしてしまうのか、というところにずっと私の興味はあって、その結果「いじめる側にもきっと理由がある」なんて発言で空気を凍らせた教育大生時代…
当然理由があるからっていじめを肯定するわけじゃないんだけど、バカの一つ覚えみたいに「いじめはダメ!絶対!」なんて言い続けても、具体的方策がないなって思ってた。だからいじめをしてしまう理由を突き止めれば、根本からいじめを抑止する手段が取れるんじゃないかと思って。
そんなわけで、少し前に買ったけど忙しくて眠らせてた本を、今回の騒動をきっかけに読んだ。
『ヒトは「いじめ」をやめられない』 中野信子著
ざっと掻い摘まむと、集団の和を乱す(この本では集団にただ乗りする人『フリーライダー』つまり集団生活の責任を果たさず権利だけ貪る人)を排除しようとするのはヒトの生存本能であるという。だからこの行為に対して、(報復を受ける、自分の損になるという)リスクは感じずに、むしろ快感すら感じるのではないか。集団になることで倫理観や道徳心は鈍化し、この非合理的な行いに、理性は逆に「これは正しい行いだ」と自分を正当化する方にすら働く、とかなんとか。
しかし「自分にとってはなんのメリットもない」「炎上(いじめ)に同調するなんて馬鹿馬鹿しい」と考える人たちもいるという。――あ、私のことだな、と思ったら、それは反社会性の高い"サイコパス"だと。
……つまるところ、私はサイコパスだった…?
まぁ、そんな冗談はさておき、前提として、この本で論じられているいじめは、『社会的排除』「不安感の過剰反応による異物排除」『正義感の暴走による制裁行動』を指している、という認識が必要。これらが起こるメカニズムについて、脳科学の側面から説明がされている。ただ、対応策に関する記述は弱い。
いじめを肯定するわけではないが『本能的な行動だからいじめはなくならない』というのがこの本の本旨なので、対応策は「いじめられるのを回避するには?」「いじめが起こりにくい集団作りとは?」という視点が主になっている。
例えば「同性からの妬みを避けるには女性らしさや若さを前面に出さない」とか、ちょっと笑ってしまった。私は図らずもそれを実践してる(というか前面に押し出す女性らしさと若さがない)ので、確かに有効だとわかるけれど、読む人によっては、なんでそんなにこっちが気を遣って生活しなきゃいけないんだ、って思うよねって言う。私は若さや女性らしさにあまり価値を置いてないから読み流せるけど、これが「知性や技術を前面に出さない」だったら多分怒ってる。いじめられないためにバカなフリをしろってか、ってね。
もう一点の、いじめが起こりにくい集団作り『仲間意識の強い集団ほどいじめが起こりやすいから仲間意識を薄める集団作りを』については、一理あるなと思う。ガチガチの仲良しグループとかは、ふとした瞬間に外し外され、他のグループとの敵対とかあるあるなので。そういう意味では最も真っ当で、最も目新しさのない提案かもしれませんね。
ガチガチの人間関係を意図的にほぐしていくような組織づくりは、学校現場では普通なのでは。…と私は思っていたのですが、どうなんです?
仲良し気が合う合わないを否定するつもりはないし、誰とでも仲良くしろとも言わないけど、たまたま一緒になった人と当たり障りなく過ごせるっていうのは、将来的には必要な人間関係調整能力だと思うので。
……というところまで書いて、これは書評だなと気がついてしまったのでした。この話題がタイムリーだった頃に書いてた文章。
自分の文章を読み返してみてようやく理解したんだけど、『フリーライダーの排除』の心理は確かにわかるな。これってつまり、一緒にバイトのシフトに入っている人がサボりまくって、その分のしわ寄せが全部自分に来て死ぬほど忙しい。だけど同じだけ給料もらってるとかふざけんな、ってことだよね(唐突な例え)。それは排除したくなるわ。わかるわかる。というわけで私はサイコパスじゃなかった。
……ということも書いて、やはり放置されていたのだった。この続きで件のニュースについて色々書いてたけど、なんか実のない文章だな、と思って消した。
この件について調べた訳でもなんでもないんだけど、報道されていた情報で、被害者の人柄、被害者と加害者の関係性、どんな感じでいじめに発展したのか、すごく具体的に想像ができてしまったから、それをつらつらと書いてたんだけど、まぁ所詮妄想だわな、と思って。でも多分、当たらずも遠からずってところだとは思っている。
教師って、やっぱり強者の傾向が強いわけで。立場的に強いって意味じゃなくて、比較的『正しく』『努力が報われて』あるいは『自分の力でなんとかして』生きてきた側、という意味でね。
特に『努力が報われて』というのがわりと曲者で、そういう経験をしてきた人は、目に見える結果を出せない人、あまり無理をしない人に『努力が足りない』というレッテルを貼りがちです。能力が高くて情熱があって、実際に努力をしていて、自分は頑張っているという自負がある人ほど特に。
ただ、その人が「こんなに頑張ってるのにどうして!?」という報われない状況になった時、あるいは努力が足りないというレッテルを貼っていた人が思いがけず賞賛を浴びた時、相手に対する攻撃という最悪の形で、自分の中に渦巻いた感情を発散してしまうことがあるのだと思います。一見成功していて華々しいところにいる人が、弱者をいじめてしまうことがあるのは、こういう理屈かなぁと想像している。
というわけで、教師に限った話じゃないんだけど、教師は努力する能力を生まれ持って、それを順当に育て(られ)てきた人が比較的多いので。
色んな子供たちに出会う中で気がついたんだけど、『努力』って誰にでも備わってる標準機能じゃないと思うの。しようと思えばできる、しないのは怠慢だっていう根性論は、当たり前に出来る側の言い分だなって。努力する方向を見極める目、努力の仕方を工夫する頭、努力に耐えうる身体、そして結果が出るまで努力を続ける精神力。
『努力』ができることもまた才能なのだ。と、あまりその才能を持って生まれなかった私が言う。真面目な話、私は努力する才能を忘れて生まれてきたと思う。大人になって、生きるためにちょっと頑張ってみて、自分のポテンシャルが意外と高かったことに驚いた。と同時に、もうちょっと努力しておけば良かったなぁと思ったことをよく覚えているし、いまだに悔やんでいる。でも多分いま子供に戻ってもそんなに努力はできないから、やっぱり『努力』を持って生まれてこなかったのだ。意志が弱いとも言う。土壇場でなんとかする根性と運だけを持って生まれてきたのが多分私です。大体そんな感じで生きてる。
以上、半年くらい前の書きかけ文章でした。
なお、結論はありません。
いま社会正義の授業をするなら、5月に「無自覚コロナテロ事件」の件で書いたように、自分が正しければその正しさで相手を切り捨てていいわけじゃない、って方向に収束させたいかな。
道徳って、一つの意見の押しつけとか擦り込みは言語道断だけど、やっぱり教師が導きたい方向はあっていいと思うんだよな。そもそも教科書にだってそういう方向づけがあるのだし。
とある考え方や価値観について、共感しても共感しなくてもいい。共感したならそれをどう活かすかは自由だし、共感しないならそれに代わる道徳的な考え方や価値観を探せばいいのだし。自分が正しければ〜の話を例に挙げれば、別に「許せない」って気持ちがあって、それを表明したっていいわけで。でもその方法を立ち止まって考えてみて、ってくらいの感じ。
正直、およそ道徳的ではない人間なので(相手に親切にするのも礼儀正しくするのも自分のためとか言っちゃうし)、いつも道徳なんて荷が重いなぁと思いながら、授業の目的を見失わずかつ、自分に嘘をつかない授業内容に落とし込むのが難しくもやりがいがあるのでした。
頑張りすぎない!って書いたばかりなので、まぁほどほどに頑張ろうと思います。