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ちょっと弱音


結局、人からよく見られたいって感情が苦しみを生むんだよなぁ、私の場合。些細なことが気になって気に病んで、取り繕って本当の自分と乖離していくのが多分一番苦しい。何せ、我が強くて気が強い苛烈な本性の人間なわけですから…(もう認めた)

なんとなくまだ噛み合わない。外に出す自分と出さない自分のバランス。これが結構難しい。今は鼻と口しか水面に出ていない感じ。息はできているけれど息苦しい。まぁ仕方ないよね。ちょっとずつ自分を出して領土を広げていくしかないのだ。最終的には頭丸ごとだして平泳ぎになりたい。ゆっくりゆっくりって、わかっているけれど、焦るんだよねぇ。

なんかそんな感じ。明日で1学期も終わりだと思うと、なんか疲れちゃったな。疲れを実感したのかもしれない。ただ、夏休みに成績処理しないと後に死ぬ目にあうので休める気がしねぇ…。
休みたいよー。海に行きたい。どっぷりゲームしたい。まだ3人しか攻略できてないの。2日ぐらいゲームに触れず寝てる。

感情を乱されたゲームの話


疲れた時は栄養をとるに限ります。ということでゲームする。人間がちゃんと描かれたやつ。和風ファンタジー。老舗の安心感。ネオロマ。
これだけでなんのゲームかきっとわかりますね。

このシリーズは、1作目を漫画で読んでた記憶が強い。誰が貸してくれてたんだっけなぁ。
ゲーム自体はVitaで歴代屈指の人気と聞いた3をやった記憶がある。ただ私のVitaどうにも繊細で、やり込む前に壊れたしそもそもやり込む時間もなかった…。なお唯一たどり着いたエンドが大団円エンドだったので、恋愛ゲームで誰とも恋愛できなかったなんて言えない…。
だから多分、ファンの皆様方からすると、ほぼ未プレイと言っていい人間かと。

とりあえず、Twitterのタイムラインに話題が流れてくるので、サブリミナルな感じで刷り込まれたのと、風花にものすごい考察をする人がめっちゃ推してたので、ぐらっときてしまった。
風花雪月と開発元同じだしな。あのシナリオと設定と作り込みの丁寧さには信頼感しかない。

そんなわけで、睡眠時間を削りながら少しづつ進めているところです。
見た目が好みドンピシャの人がいないので、色々目移り気味?ただ、メインヒーローを張っているお人が歴史上でもかなり好きなので(分厚い歴史小説も読んだ過去…)気になるわけですが、史実をふまえるとシナリオが重たい予感がする…。今は激重な展開に耐えられない…。でも多分誰を選んでも重い気がする…。誰だよ気分転換にこのゲーム選んだの!←

あ、分岐きた。どうしよどうしよ、と散々悩んでとりあえず西軍よりの選択をする。史実的にもどちらかというと私は西軍推しなんだ。負けるけど。…負けるけど。

こう…、歴史物にはやはり血が騒ぎますね。ただ、あれだけ勉強したのにかなり忘れてる。悲しい。

さて続きは追記にて(ネタバレ配慮しないよ!)

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セルフカウンセリング


というわけでちょっと落ち込んでいるのですが、まぁそのうち復活します。身体のリズムでどうしても体調悪いし、それに引っ張られているところもある。

いいんだ、落ち込むのは成長したいからなんだ。この気持ちがある限り、少しずつでも成長できるはず。
理想の自分との差を埋めようともがくのは、格好悪いけど悪くはないと思う。そうやって人間としてジタバタし続けたい。そういう姿を子供に見せたい。
何歳になったって、泥臭く足掻いていいんだよって。持っていないものを求め続けたっていいんだよって。

まぁそんなことを思って自分を正当化してる。
成長途中って地面を転げ回ってるから、その時点では自分がどうなってるかわからないけど、ちょっと落ち着くとひと回り大きくなった自分がいたりするんだよね。多分いま(異動してからこっち)それなりに転げ回ってるから、多分成長途中。大丈夫、きっとこの転げ回った日々も無駄じゃないよ。魔物との戦いじゃないだけ数万倍マシさ…←
頑張りたい授業作りで七転八倒してるんだから本望だろうさ。がんばれ私。という感じで自分を鼓舞しながらとりあえず今日は休もうか。疲れ果てて帰れなくなってる途中だけど。そろそろ家に帰りたいねぇ…。

道徳の話


前回の記事の続きです。道徳に悩んでいる。
今回は特に、教科書を使わねばならないという縛りがあってですね、控えめに言ってこの教科書クs、…教材選びのセンス残念すぎると思うんですよ←

教材のメッセージ性と価値項目の設定が噛み合わない。だからすごく気持ち悪い。消化不良を起こしている。いまここ。

今回私が扱うのは、さかなクンさんが『虐められている君へ』というテーマで書いた文章です。文章そのものはとてもわかりやすくて、優しいメッセージの伝わる素敵な文章なのですが、なぜこの教材を公正公平、社会正義の項目に当てはめたのか。「いじめの起こらない社会を作るために大切なことはなんだろうか?」じゃねーわ!

もう少し詳しい話をすると、文中でメジナのいじめの話が出てくるのですね。

群れて暮らす習性のメジナを狭い水槽に入れると、1匹が虐められてしまった。可哀想に思ってその1匹を取り出して保護すると、今度は違う1匹が虐められてしまう。広い海の中で暮らしている時はこんなことないのに、小さな世界に閉じ込めるといじめが起こってしまう。

そこに中学時代の吹奏楽部で起こったいじめを重ねて語られるわけですが、そもそもこのお話のメッセージは、「狭い世界でいじめたり、いじめられて悩んだりしないで、外にはたくさん楽しいことがあるよ、視野を広げてみて」って感じだと思うんです。
だからやっぱり、「いじめの起こらない社会を作るには」なんて問題提起じゃなくて、こどもたちへの優しいメッセージが込められた文章なんですよ。

だから、この文章は生かしつつ、思考の揺さぶりかつ深まりのある授業展開を考えたいのですが…。



とか色々悩んでたけど、ようやく煮詰まりました。
とりあえず、とっ散らかるのは良くないので、今回は大人しく教科書の教材のテーマの中に収まることにした。ただし気持ち悪さに妥協したのではなく、気持ち悪さを解消しつつ、「いじめの起こらない社会を作るために大切なことはなんだろうか?」を考えさせる授業にしてみた。


そして実際にやり終えて夜。メンタル死んだ…。
やっぱりダメだね、どうせ失敗するならやりたいことやるべきだったね!準備はちゃんとしてたから崩壊レベルの崩れ方ではないけれど、魂がないから迷走したよね。それが1番の後悔。悔しい。
やっぱり妥協すべきじゃなかったな。利口になるべきじゃなかった。色々言われても跳ね返せるくらい自分の芯を通した授業をすべきだったな。という反省。反省しかない。

ただ授業のギミックは割といい感じだったんだけど。所詮入れ物だけじゃ勝負できないんだなぁ。でも魂だけでも勝負できない。この辺りのバランスが難しい。
もっと授業が上手くなりたいなぁ。

いじめの話


去年の12月頃にぽちぽち打ってた文章が見つかったので、あげてみる。なぜ今いじめの話かというと、もうすぐ道徳なんだなぁ…。しかもやったことない社会正義の項目。教科書の題材はいじめ。
授業は来週末なんだけど、頭の内でねりねりしておかないと授業できないので。やるからには本質をついた授業をしたい。

この文章を書いた頃、教員いじめのニュースが世間を騒がせていて、それをきっかけにいじめに関する本を読んだという背景があります。
ちなみに全然まとまってないです。とっ散らかってます。だからお蔵入りになってた。



教員のいじめの話。
センセーショナルな話題ではあるけれど、何も意外なことではない。要するに教師も人間だってこと。

いじめは許されない…んだけど、そもそもなんで人はいじめをしてしまうのか、というところにずっと私の興味はあって、その結果「いじめる側にもきっと理由がある」なんて発言で空気を凍らせた教育大生時代…
当然理由があるからっていじめを肯定するわけじゃないんだけど、バカの一つ覚えみたいに「いじめはダメ!絶対!」なんて言い続けても、具体的方策がないなって思ってた。だからいじめをしてしまう理由を突き止めれば、根本からいじめを抑止する手段が取れるんじゃないかと思って。

そんなわけで、少し前に買ったけど忙しくて眠らせてた本を、今回の騒動をきっかけに読んだ。


『ヒトは「いじめ」をやめられない』 中野信子著

ざっと掻い摘まむと、集団の和を乱す(この本では集団にただ乗りする人『フリーライダー』つまり集団生活の責任を果たさず権利だけ貪る人)を排除しようとするのはヒトの生存本能であるという。だからこの行為に対して、(報復を受ける、自分の損になるという)リスクは感じずに、むしろ快感すら感じるのではないか。集団になることで倫理観や道徳心は鈍化し、この非合理的な行いに、理性は逆に「これは正しい行いだ」と自分を正当化する方にすら働く、とかなんとか。

しかし「自分にとってはなんのメリットもない」「炎上(いじめ)に同調するなんて馬鹿馬鹿しい」と考える人たちもいるという。――あ、私のことだな、と思ったら、それは反社会性の高い"サイコパス"だと。
……つまるところ、私はサイコパスだった…?

まぁ、そんな冗談はさておき、前提として、この本で論じられているいじめは、『社会的排除』「不安感の過剰反応による異物排除」『正義感の暴走による制裁行動』を指している、という認識が必要。これらが起こるメカニズムについて、脳科学の側面から説明がされている。ただ、対応策に関する記述は弱い。

いじめを肯定するわけではないが『本能的な行動だからいじめはなくならない』というのがこの本の本旨なので、対応策は「いじめられるのを回避するには?」「いじめが起こりにくい集団作りとは?」という視点が主になっている。
例えば「同性からの妬みを避けるには女性らしさや若さを前面に出さない」とか、ちょっと笑ってしまった。私は図らずもそれを実践してる(というか前面に押し出す女性らしさと若さがない)ので、確かに有効だとわかるけれど、読む人によっては、なんでそんなにこっちが気を遣って生活しなきゃいけないんだ、って思うよねって言う。私は若さや女性らしさにあまり価値を置いてないから読み流せるけど、これが「知性や技術を前面に出さない」だったら多分怒ってる。いじめられないためにバカなフリをしろってか、ってね。

もう一点の、いじめが起こりにくい集団作り『仲間意識の強い集団ほどいじめが起こりやすいから仲間意識を薄める集団作りを』については、一理あるなと思う。ガチガチの仲良しグループとかは、ふとした瞬間に外し外され、他のグループとの敵対とかあるあるなので。そういう意味では最も真っ当で、最も目新しさのない提案かもしれませんね。

ガチガチの人間関係を意図的にほぐしていくような組織づくりは、学校現場では普通なのでは。…と私は思っていたのですが、どうなんです?
仲良し気が合う合わないを否定するつもりはないし、誰とでも仲良くしろとも言わないけど、たまたま一緒になった人と当たり障りなく過ごせるっていうのは、将来的には必要な人間関係調整能力だと思うので。



……というところまで書いて、これは書評だなと気がついてしまったのでした。この話題がタイムリーだった頃に書いてた文章。

自分の文章を読み返してみてようやく理解したんだけど、『フリーライダーの排除』の心理は確かにわかるな。これってつまり、一緒にバイトのシフトに入っている人がサボりまくって、その分のしわ寄せが全部自分に来て死ぬほど忙しい。だけど同じだけ給料もらってるとかふざけんな、ってことだよね(唐突な例え)。それは排除したくなるわ。わかるわかる。というわけで私はサイコパスじゃなかった。



……ということも書いて、やはり放置されていたのだった。この続きで件のニュースについて色々書いてたけど、なんか実のない文章だな、と思って消した。
この件について調べた訳でもなんでもないんだけど、報道されていた情報で、被害者の人柄、被害者と加害者の関係性、どんな感じでいじめに発展したのか、すごく具体的に想像ができてしまったから、それをつらつらと書いてたんだけど、まぁ所詮妄想だわな、と思って。でも多分、当たらずも遠からずってところだとは思っている。

教師って、やっぱり強者の傾向が強いわけで。立場的に強いって意味じゃなくて、比較的『正しく』『努力が報われて』あるいは『自分の力でなんとかして』生きてきた側、という意味でね。
特に『努力が報われて』というのがわりと曲者で、そういう経験をしてきた人は、目に見える結果を出せない人、あまり無理をしない人に『努力が足りない』というレッテルを貼りがちです。能力が高くて情熱があって、実際に努力をしていて、自分は頑張っているという自負がある人ほど特に。

ただ、その人が「こんなに頑張ってるのにどうして!?」という報われない状況になった時、あるいは努力が足りないというレッテルを貼っていた人が思いがけず賞賛を浴びた時、相手に対する攻撃という最悪の形で、自分の中に渦巻いた感情を発散してしまうことがあるのだと思います。一見成功していて華々しいところにいる人が、弱者をいじめてしまうことがあるのは、こういう理屈かなぁと想像している。

というわけで、教師に限った話じゃないんだけど、教師は努力する能力を生まれ持って、それを順当に育て(られ)てきた人が比較的多いので。
色んな子供たちに出会う中で気がついたんだけど、『努力』って誰にでも備わってる標準機能じゃないと思うの。しようと思えばできる、しないのは怠慢だっていう根性論は、当たり前に出来る側の言い分だなって。努力する方向を見極める目、努力の仕方を工夫する頭、努力に耐えうる身体、そして結果が出るまで努力を続ける精神力。
『努力』ができることもまた才能なのだ。と、あまりその才能を持って生まれなかった私が言う。真面目な話、私は努力する才能を忘れて生まれてきたと思う。大人になって、生きるためにちょっと頑張ってみて、自分のポテンシャルが意外と高かったことに驚いた。と同時に、もうちょっと努力しておけば良かったなぁと思ったことをよく覚えているし、いまだに悔やんでいる。でも多分いま子供に戻ってもそんなに努力はできないから、やっぱり『努力』を持って生まれてこなかったのだ。意志が弱いとも言う。土壇場でなんとかする根性と運だけを持って生まれてきたのが多分私です。大体そんな感じで生きてる。


以上、半年くらい前の書きかけ文章でした。
なお、結論はありません。

いま社会正義の授業をするなら、5月に「無自覚コロナテロ事件」の件で書いたように、自分が正しければその正しさで相手を切り捨てていいわけじゃない、って方向に収束させたいかな。
道徳って、一つの意見の押しつけとか擦り込みは言語道断だけど、やっぱり教師が導きたい方向はあっていいと思うんだよな。そもそも教科書にだってそういう方向づけがあるのだし。
とある考え方や価値観について、共感しても共感しなくてもいい。共感したならそれをどう活かすかは自由だし、共感しないならそれに代わる道徳的な考え方や価値観を探せばいいのだし。自分が正しければ〜の話を例に挙げれば、別に「許せない」って気持ちがあって、それを表明したっていいわけで。でもその方法を立ち止まって考えてみて、ってくらいの感じ。

正直、およそ道徳的ではない人間なので(相手に親切にするのも礼儀正しくするのも自分のためとか言っちゃうし)、いつも道徳なんて荷が重いなぁと思いながら、授業の目的を見失わずかつ、自分に嘘をつかない授業内容に落とし込むのが難しくもやりがいがあるのでした。
頑張りすぎない!って書いたばかりなので、まぁほどほどに頑張ろうと思います。
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