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過労自殺と残業の話



昨年のクリスマスに過労自殺された女性の話。
果たして本当に "過労"自殺だったのでしょうか?

…疑問が膨らんだので、自分がどのくらい残業してるのか計算してみました。とはいえ、記録を取っていないのでおおよそで勘弁願います。来年はちょっと記録取ってみようと思っている。

さて、毎日9時まで残業したとします。ちなみに9時に帰れたら、今日はちょっと余裕あるなって思います。そんな時間設定です。
勤務終了が16時半ですから、1日に4時間半の残業です。それが週に5日。1月に4週として、
【4.5×5×4=90】
この時点で90時間の残業です。さらに、私たちには部活動と言う名の休日出勤があります。それでも日曜日は休みの超良心的なうちの部ですから、毎土曜日に4時間の部活動としますと、
【4×4=16】
と言うことで16時間の休日勤務です。
割と働いてない方の私でもひと月に106時間の残業と言うことになります。計算上は。多分もう少し働いてると思う。
報道で基準とされる数字が『80時間』であることを考えると、普通に超えています。わりと容易く。

ここで、冒頭の疑問に戻ります。
本当に"過労"自殺だったのでしょうか?
確かに働きすぎてると思います。でも、女性のツイートを眺めていると、自殺に至った直接の要因は"パワハラ"や"セクハラ"だったんじゃないか、と思うのです。

教師の自殺もよくある話です。適度に力を抜いている私と比べるのもちょっと申し訳ないですが、自殺を選ぶ彼女彼らと私の違いはおそらくたった1点のみだと思います。別に私が特別タフなわけではありません。それは、支えてくれる環境があるかないか、だと思うのです。困った時に手を差し伸べてくれる人がいるかいないか、たったそれだけだと。
仕事が人を殺すのではないと思います。環境が、周りを取り巻く大勢が、人を殺すのです。

残業時間の数字だけでは測れないところに、この問題の根っ子はあると思います。単なる超過勤務という言葉で問題をすり替えてはいやしないでしょうか?それだけが気にかかる、ここ最近の報道なのでした。

私のクリスマスイブ



今日も今日とて、クリスマスもなんのその。私は普段の休日と変わらず、ドトールにいるわけです。
クリぼっち?何それおいしいの?←

普段は賑わっているこの本屋さんも、今日はなんだか人がまばら。これがクリスマス効果か…。
ちなみに、さっき買い物したデパートのケンタッキーも、すごいことになっていました。
話には聞いていたけど、すごいなぁ。これが日本人の習性か。

クリぼっちだって別に良いのですよ。本人が楽しければ。負け惜しみじゃなくてね、本当に。
別に周りと同じことする必要なんてない。せっせと持ち歩くスノードームを作って午前中を潰そうが、ドトールでミラノサンドを食べてカフェモカ(ちょっと贅沢してL)を啜ろうが、チキンを食べなくたって別にいいのだ!でも、ケーキはちょっと食べたい!
一人だって楽しめる。だから、誰かと一緒でも楽しめるんだと思うよ。誰かと一緒じゃなきゃ楽しめないなんて、人生窮屈だなって思う。

…と思っているのですが、周りからはあまり理解されなくてつらい。別に寂しくないんだけどなぁ。
無理して周りに合わせるより、外面で新しい友達や恋人を作るより、私らしく自然体でいたい。
そんな私でいいよ、って言ってくれる人だけ、本当に大切にしたい。それじゃあダメなのかな。

キャトられ未遂



 夜。車を走らせていると、眼前の夜空に光が一つ瞬く。流れ星か?と思ったのも束の間、かくんと不規則に方向を変えた。どうやらUFOであるらしい。UFOはそのまま、遙か前を走っていた車を捕捉し、空へと吸い上げる。キャトルなんとかだ!と一瞬興奮するも、次の瞬間UFOはこちらに迫ってくる。獲物は一台では飽き足らず、次の標的はどうやら私の車らしい。はっきりと形のわかるUFOと、UFOから伸びる光の足。逃げ切れない、捕まる――なら、その前に打ち落とせばいい。と思ったのかどうかはわからないが、ハンドルはコントローラーに。いつの間にかUFOを打ち落とすシューティングゲームになっていた。


 夢の話です。
 多分寝る前に超常現象のたぐいを検証するサイトを見たせいで、UFOが出てきたのだと思いますが、そこからシューティングゲームになった流れがあまりに鮮やかでおもしろかった。流行のVRとは斯くや。

 朝起きて、「あれ、わたしUFO見たことあるな。どこだったかな?……あぁ、夢か」ってなるぐらいにはリアルな夢でした。

過去の自分がまじめに書いてた


 続きます。名付けて過去シリーズ。
 書きかけ文書の墓場をお掃除中です。


 職業柄、 『発達障害』 について考えさせられる今日この頃。
 建前とか取っ払って、まじめに素直に思うことを書くので、懐が深い方以外は読まない方がいいです。あと、職業柄って書いたけど、いっそ職業というフィルターは取っ払って下さった方がありがたい。これは私が個人的に思うこと。職業人としてあるまじき、と思われるのもまぁ仕方ないかなくらいには思っている。

 結論から言うと、私の主張は『障害名』は本人のましてや家族の免罪符ではない、ということです。
 あ、ここで言う障害とは、最初に書いたとおり 『発達障害』 をさします。ですので、先日の大事件とは少しベクトルが違うことをご理解下さい。
 私は、発達障害の障害名は”周りの人”が、その人を”理解するためのもの”だと思うのです。理解して、適切に手を差し伸べるためのいわば『情報』だと考えています。
 ちょっと障害から離れた例え話で詳しく説明しますね。例えば、遅刻常習犯の友人がいたとします。そうですね、単に低血圧で朝起きられない人ということにしましょうか。相手が低血圧で朝に弱いことを知っていれば、そういう体質だからまぁ仕方ない、と理解を示すことが出来ます。その上で、じゃあ約束は昼からにしようか、とか、仕方ないから起こしついでに迎えに行くよ、とか、色んな手の差し伸べ方を考えることが出来ますよね。
 でももし、その友人が「自分は低血圧で朝起きられないから遅刻しても仕方ない。遅刻しないように周りがどうにかするのが当然」と言い放つ、あるいはそんな態度であったなら?
 これをそのまま『障害』に置き換えてみてください。つまりはそういうことだと思うのです。
 人間誰しも、出来ないことはあるものです。「自分はこういうことが出来ません。だからこういう面で助けて下さい」って、周りの手助けを得るのは、実は私が思う自立のあり方と同じなのですね。必要だから適切な支援を受ける。それでいいんです。障害の有る無しにかかわらず、人はそうやって生きていくものだと思うのです。
 でもね、時々、勘違いしている人がいる。「障害だから」は”出来ない”免罪符じゃない。”出来る努力をしない(させない)”免罪符でもない。”理解してくれない周りを詰る”免罪符でもないし、”特別扱いを要求する”免罪符でもない。
 あえて書きますね。最初にそれを免罪符にするのは本人ではありません。親です。本人じゃないです。親なんです。
 保護者の方の苦労は計り知れません。それでも、もっとずっと先を見た「その子のために」をもう一度問い直してください。私もそうやって子供達と関わっていきたい。そのための協力は惜しみたくない。


 これは今年の8月くらいに書いた文章です。この時期担当生徒とその保護者のことで、胃がやられるくらいには参っていた時期だったので、多分その辺で生まれた文章ではないかと思われます。ちなみに文中にある「先日の大事件」とは、障害者施設の殺傷事件のことですね。
 特別支援教育って難しいのですね。わからないことばかり増えていきます。何が正しいのかもわからなくなるときがある。でも一つ言えるのは、その子の「未来」を考えてあげることが大切だと言うことです。今を無難に平和に過ごすことは出来る。でもそれが未来に通用しない方法だったなら、ずっと今に居座り続けることは出来ませんから、近い未来でたぶんしんどい思いをする。
 私たち教師は、学校という子供の今を飛び越えることは出来ない。未来で困っても、助けてあげることが出来ない。だから未来で困らないように、今出来ることをしたいと思う。

 あとね、障害も性的マイノリティも合わせて、”差別されない””受け入れられる”っていうのは、何も全肯定されることじゃないと思うのです。差別されない、というのは”否定されない”って事だと思うの。私はね。
 私も、結婚して子供を産むだけが女としての幸せでも人生でもないし、自分らしく人生を大事にして生きていきたいという思想を持ってるけど、周りはやっぱり何かにつけて「結婚」のワードを持ち出してくるし(そういう歳になったということ)、やっぱり自分はマイノリティなんだなぁって思う。
 下手に軋轢は生みたくないからのらりくらりとかわしているけれど、そういう思想を持っていることを、別に肯定されなくていい。だって肯定したら、種として滅ぶし。だけど否定はされたくない。「あぁそんな風に考えてるんだね」それだけでいい。「そういう考えがあるよね」それでいい。
 マイノリティがマイノリティであることにはやっぱり理由がある。それを、肯定しろというのはエゴだ。

 ちなみに、先日、周囲の「いい人いないの?」攻撃をかわす際「今候補を育ててるところ」と返したら場が凍ったよね。会心の一撃です。困ったときにどうぞ。

過去の自分がおもしろいこと書いてた


 ちょっと電波だけど、ちゃんとまとまってるので乗せてみる。
 ちょうど1年前に書いたようです。


 今年は、私がずっと応援(購入)してきた作品が次々にメディアミックス(発表)される、という一年でした。
 メディア展開されることは本来であれば喜ばしいことですが、どうしてかいつも寂しくなってしまう私です。そして、大抵手を出しません。というか出せません。
 絶対にコレジャナイ感を味わうことがわかっているからです。
 何でわざわざこんなことを書いたかというと、ふと、その理由が非常に気持ち悪い感じで降りてきたからです。非常に気持ち悪いのですが、ものすごく腑に落ちました。
 
 ……その腑に落ちた感覚を上手く伝えようとしてあれやこれや言葉をこねくり回しているうちに、さらに気持ち悪く変貌を遂げたので、一度リセット。
  簡単に、誤解を恐れずに書けば、作品を読むことは世界やキャラクター、その他諸々を通して作者と対話する事ではないかと思うのです。まぁ、一方的ですがね(つまり対話ではない)。
 もちろん、一番はストーリーであり、キャラクターを"読む"わけですが、その過程でふとした瞬間に作者の意図や意志、想い、人柄そういった諸々が"読める"、ような気がするというわけです。まぁ、所謂妄想の類だと思っていただければ。そこの所は自覚している。
 もちろんそれが全て正解だとは思わないし、もしも合っていたとしても、それは作者のほんの一部分だと思う。だけど、文章や言葉には必ず意識が反映されます。意識的でも、無意識でも。そういったモノが、世界の根底に流れる空気を醸成するのだと、私 は割と本気で思っている。
 つまりそういうふわふわしたモノを勝手に読みとった気になっているので、メディアミックスによって、第三者の意志や意識が介入すると、途端別のモノになったような気がするのでした。
 要するに自分だけの世界だった作品に、別の人の解釈が挿入されることで、アレルギー反応を起こすのでしょうね。あと、邪魔されたような気持ち?うーん、難儀。

 小さい頃から、本を読むと映像が見えたんですね。だからずっと、本を読むというのはそういうことだと思っていた。だから、それが当然ではないことを今でも理解できないくらい。音が聞こえているのに気がついたのは、メディア展開で声がついたのを聞いた時。
合う、合わないとかじゃなくて、あぁ違 うな…って思う。そして、どれだけメディアの声に慣れたとしても、原作を読む時はやっぱり私の中の声で再生されるのでした。
 そういう感覚的な読書の難点は、感覚を他者と共有できないことですね。どれだけ言葉を重ねても、やっぱり的確には伝えられなくて、歯がゆい。もう、私の身体貸してあげる!って言う気持ち。いや、身体を貸してもダメなんだろうけど。


 あいたたた…な感じなのは十分に理解していますが、電波受信するのはしょっちゅうだし、わりと普段からこんな感じなのでもういいかなぁと思い始めてきた。もっと電波受信した記事とかたくさんあるんだけど、またいずれ。

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