空木が咲く前に 五十七

「消えてしまいたい」

誰に言うでもなく口に出したその言葉に返答する者はいなかった。それは不幸中の幸いだったのかもしれない。手のひらに吐き出した白濁を乱雑に懐紙でふき取り、厠の穴に放り込んだ。

「詐欺だ。最悪だ。畜生、なんで明なんかで……」

肺一杯に吸い込んだ空気を吐き出すと、俺は乱れた着物を直し、呉服屋の裏庭にある小さな井戸で手を洗う。空はとっくに暗闇に包まれていて、月の位置で大よその時刻を図り、もう一つ溜息をついた。

時間をかけすぎてしまった。仕方ないことだとは思うが、それでも自責の念に駆られる。平たく言うと俺は今賢者状態なのだ。明の毒牙にかかり掛けた俺は、玄によって隔離された。どうすればいいか、という考えは、熱を持った自身を認識すると、もうしなければいけないことは一つしかなかったのだ。

汲み上げた井戸水を手拭いに含ませ、汗ばんだ体を軽く拭く。汗をかいている状態だと気取られる可能性が高いという建前で、僅かに残った明の香りを振りほどく、という自衛だった。

「−−六三四にどんな顔で会えばいいのだろうか」

その言葉にも、返してくれる人はいなかった。否、いなくてよかったのだ。自分だけで解決するべき事柄なのだから。

固く絞った手拭いを首に巻き、俺は再び明と玄のいる部屋に戻っていった。始めない限り、終わることは何もないのだから。

「待たせてしまい申し訳ない。では話の続きを……」

そう言いながら障子を開けると同時に、明はぱっと明るい顔で此方に振り向いた。

「あ、五六四さん! おかえりなさい!」

ぶんぶんと、犬の尻尾が見えてきそうな様子の明に、何よりも先に嫌悪感が生まれた。

「……こんなので」

「こんなので?」

「なんでもない」

こてりと首をかしげる明に、俺は眉を顰めながら視線を外した。敢えて言うならば、男の矜持が許せなかった。

俺は小さく溜息をつき、視線を玄に移す。

「それで、ええと、男娼の話だったな。基準、あるんだろう?」

そう尋ねる俺に、玄は困ったお人だ、と眉を下げた。

「明に聞きましたよ、耳の人、なんでしょう? ならはぐらかすのは得策ではないでしょうねえ。−−子供、ですよ。子供。少年とでも言うべきでしょうかねえ。雪定様はそういう奴にご執心ですよ、はい」

「うげ……」

玄の言葉に、明は大きく顔をしかめた。自分の経験から来るせいなのだろうか。

「少年愛、か。だったら俺たちがいくら着飾っても……いや、俺は着飾っても意味はないかもしれないな」

「ねえ五六四さん。なんで言い換えたの。五六四さんも可愛いよ?」

「世辞は止せ。と言うか自画自賛か?」

「自分の事は自分がよく知ってるからなあ」

ほら、俺好かれそうな感じだろう? そう言いながら明はにやりと笑った。その中にアキレアを含ませたのは、俺への当てつけなのだろうか。

俺は今日何回目になるのか分からない溜息をつくと、明の背中をバシッと叩いた。

「っい! え、何、五六四さん怒ってる?」

「怒らない、と思っているならお前は俺を買いかぶり過ぎだ。怒っているぞ、凄く。ああ、とても怒っている」

敢えて淡々と、目を合わせながらそう告げると、明はぎょっとした様子で目に見えて顔を青くした。

そんな明に少しだけの優越感を感じながら、半眼にしたまま、それで、と玄に顔を向ける。

「そんな少年愛好者な雪定様に、俺たちを何と言って売る気だ?」

「ふ、くく。面白いお方で。いや何、少年たちの初物も、もう少なくなってきましたからね、指導役として売り込もうかと。門前払いされたらそれはその時ですよ」

「指導役……まて、それではまるで」

嫌な予感をそのまま口に出すと、玄は少し困ったような顔をして、頬をかいた。

「はい、そうですよ。あなた様の考えている通りで。……私も、嫌なのですがね。帰ってきた様子はないのですよ。かと言って死体が上がっているわけでもなし。そうなると、考える事は一つしかないでしょう」

「……大よその数は?」

「私どもの所からは十程度。しかしそれだけ、とも言い切れませんねえ」

「なにそれ怖いんだけど。囲い込んで帰していない? ってことはまんま身売りじゃんか」

「まあ、そうなりますね。という事で、とびっきりの指導、やってきて下せえ」

のんびりとした玄の口調に、俺と明は目を合わせ、同時に溜息を吐いた。顔色は両者共に悪く、これからの事を思えば、偏に面倒くさいと感じた。何故俺が色事の任務に当たったのだろうか。六三四がこの仕事に当たる事より何倍もマシだが、それでも気乗りはしない。明は俺以上にそう感じているのか、虚ろな目でぶつぶつと何事かを呟いていた。

「さあさあ、せっかくおめかししたんですからねえ、行やしょうや、少年たちの花園に」

そう言いながら俺たちの背を押す玄だけが、何故か生き生きとしていて、心底鬱陶しかった。商人という者は、皆こうなのだろうか。そう考えながら、俺たちは夜の街を歩いた。