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痛いくらいの恋心を貴方からぶつけられた時―2

店長の車は、店の裏口から出て少し歩いた場所にある駐車場に停めてあった。

この駐車場は従業員用の専用駐車場で、片隅には明の赤いバイクも停めてある。

店長の車とは言うと、深い海のような、光沢のある青い普通車。正直車には疎く、詳しい事は分からないが、それでも安っぽさは感じられず、手入れは行き届いていることは見て取れた。

街灯に照らされたその青い車は、辺りが薄暗いせいか、店長の髪の色に近く感じられた。

「どうぞ、乗って乗って」

店長が助手席側のドアを開けて、にこりと笑った。その仕草は、先程感じた子供っぽさはなく、不意に鼓動が早まる。

「で、では失礼して……」

こういう女の子扱いは、慣れていなくて正直戸惑う。

私は、どちらかと言うと、力仕事の方が性に合っていて、周囲もそれを知っているから、私からそれを奪うことはなくて。それは男扱いされていることとはまた違い、長所を尊重されている事だと感じている。

だから、慣れていない。さらりとしたシートに座らされて、車臭くなく、寧ろ夜を思わせる甘い匂いの車内も。運転席に座って、バックミラーを調節する横顔も。慣れた仕草で車を発進させる様子も。
何もかも不慣れで、自分がこの場所に場違いのような感覚すら覚える。

「大人、だな……」

今更のようにそう感じる。当たり前の事なのに、本当に、今更。

「ん?どうしたのかな?」

店長はチラリと一瞬だけ此方に目をやり、薄く微笑んだまま前を見て運転する。

「いや、此方の話だ。すまない」

急に自分が恥ずかしくなった。好意を寄せているはずの相手なのに、実際の姿を見ていなかった事を知って。

「これでは、木之瀬里奈と変わらないな……」

「木之瀬って……ああ、さっきの厄介なお客様のこと?どうしたのさ、暮麻ちゃんは暮麻ちゃんだよ?」

「店長……」

店長の言葉に、自分の醜い部分を知られていない安堵が一瞬過ぎったが、ギュッと胸が締め付けられる。

「いや、変わらないのだ……私が、好意を寄せている人に対して、勝手に夢を見て、幻想を……いや、フィルターと言った方がいいかな、そういうものがあったのかもしれない。そう思ったのだ。……私に、木之瀬里奈を責める資格は、なかった……」

言葉は、意外にするりと胸から零れ落ちた。

甘い夜の香りのせいだろうか。私の口から出る言葉が、何故か甘く感じられて。本当は、どろりと嫌な匂いのしそうな言葉なのに、そう感じた。これは、ただの懺悔だというのに。

店長は、少し考えるように間を置いて、穏やかな声で語り始めた。

「そりゃあ、女の子だもん。夢を見るのは仕方ないさ。……ううん、僕だって、フィルター越しに見ているのかもしれない。こうであって欲しい、なんて女々しく思っている部分は僕にもあるさ。だけどさ、それって悪いことなのかな?僕はそう思わない。暮麻ちゃんは?」

「私は……分からない」

「そっか。うん、答えなんて恋愛に対してはないからね……。でも、大切だ、って分かるのは、一つ、確かにあると思うんだ」

「それは……何だ?」

「自分のフィルターにそぐわない相手が見えても、怒らないことかな。悲しむな、って言われても出来ないでしょ?いきなり受け入れろってなっても、それには時間が必要だろうね。だから、怒らないこと。だって、相手は何も悪い事はしていないでしょう?」

「それは、そう、だな」

そう答えると、店長はフフーンと笑って、車を路肩に留めた。

「店長……?」

「ねえ、暮麻ちゃん」

そう言いながら、店長は安全ベルトを外し、此方に身を乗り出してきた。

「て、店長……?」

店長の顔が、近い。

金色の瞳が、追い越して行ったヘッドライトに反射して、キラリと蠱惑的に輝いた。

「僕、勘違いしちゃっていいかな?」

吐息混じりに告げられた言葉には、夜の甘さが混ざっていて。くらりと思考が止まる。

「な、何を……?」

「暮麻ちゃんがいつも持ってきている以外の荷物、すごく甘い匂いがする。今日持ってきて、まだ渡されていない甘い匂いのする紙袋。……僕に、って思っちゃうよ……?」

「て、てんちょ……」

店長の腕が伸び、カタンッ、とドアのロックが外された。

その時、店長の首筋からも、甘くて大人な香りがして。私は酸欠になったように頭がくらくらした。

「違うなら、今すぐ僕を突き飛ばして逃げてよ」

カチン、安全ベルトが外されて、私は自由になった。しかし、私は動かない。いや、動けない。

「暮麻ちゃんなら、簡単でしょう?」

つ、と顔の輪郭を、店長の長い指が這う。くすぐったいような、それでいて腰の辺りが重くなるような感覚に、私は指一本さえ動かす事が出来なくなる。動くのは、緩く閉じられていく瞼と、震える唇だけだった。

「……勘違い、しちゃうよ、本当に」

「勘違い、じゃ、ない……」

「ん?」

「このチョコレートは、店長に……」

「真座」

「え……」

「僕の名前。呼んで……?」

囁く言葉は、麻薬のように私を縛っていく。私の体は快感に震え、唇は自然と店長の名前を口にしていた。

「しん、ざ……」

もう呂律すらまともに回らない。頬に添えられたら手に、指を重ねると、店長は甘くとろけるような声で囁いた。

「もっと、呼んで……?」

「しんざ……しん、ざ……しんざ……んむっ……」

唇が、重なる。

真座は、啄むようにゆっくりと私の唇を吸った。

何度も、何度も。

角度を変え、くちゅ、と時折零れるリップノイズが、脳天を痺れさせる。

「んっ……」

気恥ずかしさと、くすぐったさと、何故か感じたもどかしさで軽く身を捩ると、真座は差し出されたように向けられた頬にキスをして、私を抱きしめた。

「真座……?」

「ねえ知ってる?」

チョコレートって、媚薬のように食べると気持ちいいんだよ?

その言葉に、私は顔を赤く染めた。これ以上赤くならない自信があったのに。

「……ガトーショコラでも同じだろうか」

「試してみようか……?今度は、食べながら、キス、しよ?」

何て甘い誘惑なのだろうか。

私の上に馬乗りになって、蠱惑的な笑みを浮かべた真座に見下ろされながら、私は震える手で紙袋からガトーショコラを取り出した。

それからしたのは、ガトーショコラみたいにほろ苦くて、何よりも甘くて痺れる大人のキスだった。

痛いくらいの恋心を貴方からぶつけられた時

「ふう……」

明と梟が、Magnoliaに受け入れられた時、常連客の皆さんが祝だと酒盛りを始めた。

この店は、種類こそ少なく、また度数も低いが酒も取り揃えている。

その酒を片手に、常連客は梟を囲むように椅子を移動させ、宴会を始めた。

常連客以外は、少し面食らっていたようだが、厨房は奥まった位置にあるため、被害は最小限に止まった。

それと、思わぬ収穫もあったようだ。

明の告白に勇気づけられたのか、何組かのカップルが誕生して。なんやかんやあったが、幸せの形が出来上がっていた。

そこで終われば全て丸く収まったのだろうが、宴会を始めた常連客が中々帰らず。酒瓶を片手に明と梟をはやし立て、梟はうんざりとした様子でホットチョコレートをすすり、明は何故か胴上げされていた。

常連客が、ハメを外していても理性は保っていたのは、不幸中の幸いだろうか。叫喚地獄行きの様にならなくて、私は飛び交うオーダー(主に酒とおつまみになるもの)に目を回しながらも、少し安堵していた。

それからどれくらいの時間が経っただろうか。

額から吹き出る汗を拭い、休憩室で水分補給をしていると、休憩室のドアが開いた。「お疲れ様、暮麻ちゃん」

「ああ、店長か。お疲れ様。其方はいいのか?」

其方……つまりはホールの収集のことだが、店長は紺色の髪をさらりと揺らして苦笑いをした。

「あそこはもう強制終了するしかないかなー。まあ、僕も煽っちゃったんだけどね」

「……騒ぎの元凶は店長か」

そう微かな恨みを込めて店長を見やると、店長は慌てたようにフルフルとかぶりをふった。

「いやいや、集まって宴会始めたのは僕には関係ないんだよ。……ま、まあ、胴上げを言い出したのは僕なんだけどね。明くんの男気を誉めたくて……」

「ああ、それでか……って、他にやり方があるだろうが」

「ば、場の雰囲気に飲まれましたすみません」

へにょん、と怒られた子供のような様子に、私は更なる怒りは浮かんでこなかった。ここで怒りすぎたら保護者失格だ。

「ふふっ……まあいい。で、どうするんだ?このままだと常連客は朝までコースに突撃しそうだが?」

「それは従業員の労働基準法に反するから、説得してくる。……って、暮麻ちゃんも駄目じゃん。もう十時過ぎてるじゃんか!」

「ああ、もうそんな時間か」

そう言いながら壁に掛けられた時計に目をやると、針は十時四十二分を刺していた。

「ああもう、店長失格だぁ……。暮麻ちゃん。常連客はすぐに帰すから、暮麻ちゃんは帰り支度しなさい」

店長命令だよ!と指を指して胸を張る店長は本当に子供の様で。その可愛らしさに自然と笑みが浮かぶ。

「ああ、分かった。……っと、梟も送るか?まだ常連客に囲まれていただろう」

「梟ちゃんは明くんに任せておきなさい。明くんバイクだけど、二人乗り出来るし」

「それもそうだな。では着替えてくる」

そう言いながら、休憩室に続くロッカールームに移動する。ロッカールームは、きちんと男女別々に作られていて、これは店長の思いやりから来る設計なのだろうと、改めて思った。

エプロンを外し、茶色のベストと黒いシャツを脱ぎ、自分の服を着る。ふとロッカーについている鏡を見ると、僅かに髪型が崩れていた。

梟の案で、緩く内巻きになっていたボブが、一部元のストレートになっている。一部だけ内巻きになっているというのは、やはりおかしな気がするので、ポーチに入れておいた櫛で癖を直す。

再び見た鏡に映っていた自分は、いつもの自分で。せっかくのお洒落も、なかったことになってしまったと一人自虐する。

「……まあ、仕方ない、か」

不揃いな方が、更に不格好だったし、と気を持ち直し、ロッカーから鞄とチョコレートの入った紙袋を取り出し、休憩室に戻る。

「はいはい、帰った帰った!もう店仕舞いなの!……ってそこ!ブーイングしない!ほらほら、会計の方に並びなさ……おいおいもう厨房に行っても何も出さないからね!帰りなさい!」

店の方から店長の怒鳴り声が聞こえる。

しかし、叫んでいても店長の優しげな声自体は変わらないので、どこか締まらない。それは客の方も同じなのだろう。しかし、店長は怒らせてはいけないという事は知っておいた方がいいだろう。後が怖い。

いいから帰りなさい!と店長が叫ぶと、渋々といった様子で気配が遠退いていく。どうやら漸く諦めたようだ。

「はあ、全く……と、暮麻ちゃん準備出来たようだね?」

「応」

「……あれ?」

「どうした店長?」

店長が私の手の方を見やり、少し驚いたような顔をした。しかしそれはすぐに引っ込んでしまい、店長はポケットから車のキーを取り出した。

「じゃあ行こうか」

視線と表情の意味を聞き出す前に、店長は店の裏口の方に足を向けていた。

……いったい何なんだろうか。

黒と白の罪悪

休憩室はこの店で一番簡素な作りになっている。長机を二つ並べて、その周囲をパイプ椅子で囲んでいる。その他に小さめのテレビや、会議用のホワイトボード、黄色い花が花瓶に飾られているが、それは今は関係なく。

奥側のパイプ椅子に彼女を座らせると、私は逃がさないと意思表示するためにドア側の椅子に座った。

「で、名前は?」

そう横柄にも取れる口調で問い掛けると、彼女はふいと顔を背けた。

「あんたなんかに教えてなんかやらないもん!」

もん、と言えば可愛らしいと、庇護欲が出るとでも思っているのだろうか。

まあ、可愛らしい口調は嫌いではない。自分で使う事はないが。

しかし、今の私は怒り心頭状態な上この女が大嫌いだと感じているので、その口調は火に油を注ぐような物だった。

「ああ、そうか。ではこう呼ばせてもらおうか。犯罪者殿?」

嫌みたっぷりに。薄く笑いすら浮かべてそう言うと、犯罪者殿は怒りに顔を歪ませた。

「犯罪者ぁ!?何よ、この店は客を犯罪者呼ばわりするの!?最低!」

「店員に対する暴行。それに加え営業妨害に侮辱罪。警察に突き渡せば立派な犯罪者だ。違うか?」

「は、犯罪?警察?わ、私がそんなことにはならないもん!絶対ならない!悪いのは全部この店だもん!」

「そうやって、貧相な語彙で侮蔑されるのは喧しくて適わんな。その自信はどこから来るのだ、犯罪者殿?」

「私は犯罪者なんかじゃない!木之瀬里奈だもん!」

やっと名前を名乗ったか。しかしまあ、どうしてそこまで虚勢を張れるのか。いっそ気味が悪い。こんな人間がこの店に来ていたのかと思うと、怖気が走る。

「ああ、そうか木之瀬殿。自分は犯罪者ではない。あくまでもそう主張するのだな?一応聞かせて貰おうか。何故自分が犯罪者ではないと思うのだ?」

「私は悪くないからだもん」

同じ主張。ただただ自分は悪くない。それだけでここまで人を貶めるような言葉が吐けるなんて。なんという愚者だろうか。いっそ笑いが込み上げてくる。

「な、なによ。何が面白いのよ!」

くつくつ笑いながら、私はキシリと音を立ててパイプ椅子に背凭れた。

「私は、人を壊す言葉を知っている」

「は……?何を、言って……」

「まあ、私の独白だと思ってくれて構わない。人はな、辛い事があるだけ強くなる。そういう事はよく聞かないか?」

「聞く、けど……」

「ああ、相槌はいらない。私の独白。そう言っただろう?」

黙っていろ。そう言外に伝えると、木之瀬里奈は初めて居心地の悪そうな顔をした。

「辛い事を知るというのは、そうだな……辛さから来る優しさ、というのもあるだろうか。辛い思いをしたからこそ、その辛さを知っているからこそ、優しくなれる。自分が死ぬほど辛い思いをしたからこそ、同じ境遇の人間に優しく出来る。優しさは一種の強さだ。寛容さとも言えるだろう。しかしな、死ぬほど辛い思いをした。それはそうさせる程の何かを知っているということだ。暴力、暴言、差別。まあ色々ある。私の辛さなどたかが知れているが……まあそれでも、甘ったれた世界に生きている人一人くらいは壊せるらしい。私は実際には使った事がないから分からないがな。……で、ここからは木之瀬里奈。お前に対する問い掛けだ。……知りたいか、その言葉達を」

「い、意味分かんない……なによその変な考え!異常者よ!」

「私が聞きたい言葉はそれではない。聞きたいか、と問い掛けたのだ」

「し、知らない……知りたくない……!そんな異常者の言葉なんて聞きたくない!私帰る!家に帰る!」

ガタンと椅子を蹴って木之瀬里奈は立ち上がった。が、私はそれを力尽くで椅子の上に押し戻す。

「帰すわけにはいかないのだよ。敢えて言うなら、私は心底怒っている。まだ、謝罪を聞いていないからな」

「謝罪……?なんの……」

「しらばっくれるな。暴行に暴言。後で明と店長に謝ってもらう」

「い……嫌……。嫌よ、そんな、私が悪いわけじゃ……」

顔は青ざめているが、木之瀬里奈はそれでも虚勢を張る。

ああ、私を制御が効かなくなる程怒らせないでくれ。壊す事は、本当は嫌いなのだから。慈しんで、甘やかして。そういう方を好む性分だというのに。

なのに、木之瀬里奈は、私の逆鱗に触れたばかりではなく、逆鱗を殴ろうとしている。

「……では、暴言の方はまだいい。まだ、な。しかし、明を殴った事に罪悪感はないのか?好いていた男だろう?」

「……明さんなんて、もうどうでもいいもん!」

「一度は恋心を抱いたのに、か?想像したことはないか、明が君に熱の籠もった眼差しで見て、誰よりも特別扱いをして」

「そ、そんなの……」

「していない、か?」

「し、して、な……」

「まあ、お前が明とそうなる可能性は、今回の事でマイナス方向に天文学的数字にまで下がったがな」

「え……?」

「なんだ、本気で分かっていなかったのか?身勝手に傷付いて、身勝手に最低、と罵倒して、身勝手に殴った。それで明がお前を見初める……なんて、三文小説でも有り得ないことだ。それに……」

そこで、店の方向からわあ、と歓声が上がった。

「ふむ。明と梟は、この店に受け入れられたようだな」

「え……」

「ここに来る前に、明が梟を追いかけて行っただろう?そろそろ戻って来る時間だと思ったよ」

「そ、そんな……。え?明さんが?あんなガキに?受け入れられた、って……?」

「ああ、そうだ。明と梟は、晴れてハッピーエンドだ。君と違ってな」

「う、嘘。あんな、あんなガキに、ま、負け……?」

「そうだ、負けたのだ。……まあ、お前では、明がフリーでも恋は叶わなかったと思うがな」

「な、んで……」

「お前には、明が惚れる要素が見受けられない。身勝手過ぎる。人の気持ちを全く汲み取れない。その他諸々。……と、まあここまでにするか」

そう呟くと、カチャリと背後のドアが開いた。振り返って其方を見ると、ニッコリと笑った店長が入ってきていた。

「明くんと梟ちゃん、上手くいったよ」

「そうか、それは何よりだ」

「……で、少しは反省したかな、彼女は」

「絶望だけはほんの少し与えておいた」

つっけんどんにそう言うと、店長は少しだけ困ったような笑顔を浮かべた。

「絶望って……暮麻ちゃんは手厳しいなぁ」

「それくらいで丁度良いだろう。なあ、木之瀬里奈」

「っ……」

ビクリ、と怯えたように、木之瀬里奈は肩を震わせた。

「ふむ……どうしよっか。月丸くん……ああ、警察の人ね。今店にいるんだけど、連行して貰おうかも悩んでたんだけど……」

「け、警察……?」

「うん、刑事さん。でも……今の店の雰囲気壊したくないから、君は帰りなさい」

「え……」

「君がいたら空気が壊れる、とだけ言うよ。裏口からで悪いんだけど帰ってもらうよ。あ、そうだ」

そう言うと、木之瀬里奈を威圧するように、店長は上から見下すように、冷酷に微笑んだ。

「逆恨みしてこの店と店員に何かしたら……コネを全て使って君を潰すからね」

……店長が、自分ではなく私を説得もとい説教に回したのは、店長なりの最後の優しさだったのかもしれない。

その笑顔、凄く怖い。






〈店長のコネ〉
・今まで勤めてきた会社関係
・経済学を学んだ時の級友(経済界や政治関連)
・裏道関係の方々
・警察(月丸から伸ばしていったらしい)
・常連客(数の暴力)

根拠のない自信

音がした方向は、厨房方面だった。

いきなり乗り込むのは流石に戸惑うので、いつも通り私と店長は物陰から様子を窺う。詳細に言えば、Dの席と厨房の間にある仕切りから、トーテムポールのように顔を出して、様子を見る。

怒り狂った女性。それに対する梟。二三言葉を交わした梟は、そのまま明を振り切るように出て行った。レジカウンターに金を置いて。

「……明くん?」

トーテムポールの下側にいた店長が明に歩み寄る。

「……ざけんな」

「明くん」

「何してくれるんだ、あんた」

そう言いながら明は先程怒り狂っていた女性の胸ぐらを掴む。身長差があるせいか、彼女は殆ど釣り上げられたような格好になっていた。

「ひっ……」

彼女の顔が一気に青ざめる。それはそうだろう。滅多に怒らない分、明は一度沸点に達すると、私でも身を一歩引いてしまう程明の怒りは凄まじい。明の怒りは灼熱の炎のように心身を焦がす。

「明くん、暴力は駄目。離しなさい」

店長は、あくまでも理性的だった。いや、店長も怒っている。店長は、人を、身内を傷つけられる事を酷く嫌う。

私は、店長にまで危害が及ばぬ様に店長の左後ろに回った。

「だって、こいつのせいで……!」

「……明くんが怒る、ってことは梟ちゃん絡みだよね。怒ってるのは僕も同じさ。でも、暴力だけは駄目」

「……分かった」

明はそう言って、突き放す様に彼女から手を離した。

彼女は大袈裟な様子でふらつき、尻餅をつく。その様子で、彼女の性質は知れた。

「酷い……酷い……!こんなの許さない……!ケーサツに訴えてやる!」

「……警察に関わって、不利なのはテメエだろ」

明が冷酷な声でそう言うと、彼女はまた酷いと言って顔を両手で覆った。

「ねえ。君、明くんを殴ったでしょ?明くんの頬、赤く腫れちゃってる」

「知らない!知らない知らない知らない知らない!明さんが悪いんだもん!」

なんて我が儘で身勝手な女なのだろうか。

私の心中には苦い物が広がる。

「知らない、じゃないよ。今謝ってくれるなら、僕も警察沙汰にはしない。……謝ってよ」

店長の声には、明と同じく、冷たい物だけがある。同情や憐憫は一切ない。私と同じく、身勝手な彼女に呆れているのだろう。

「嫌よ……!なんで私が謝らないといけないの!?私は悪くない!」

「おい、人を殴ったのは事実だろう」
見かねて口を出すと、彼女はヒステリックな声で叫んだ。

「殴るようなこと言った明さんが悪いんだもん!私は、私はただ、明さんの為にチョコレート渡したかっただけなのに!なのに明さんは受け取れないって!今まで優しい言葉くれたのは私を騙す為だったんだ!この詐欺師!最低!」

もう、私の心には呆れしかなかった。

「最低なのはどっちだ」

溜め息混じりにその言葉を吐き出すと、彼女はキッと目をつり上げて叫んだ。

「あのクソガキと同じこと言うなんて!こんな店が悪いのよ!最悪な環境!こんな最低な店来るんじゃなかった!」

「……おい」

自分でも驚く程の低い声が出てきた。しかしそれに驚いているのは微かに残った理性だけで、私はそのまま言葉を紡ぐ。

「な、なに、よ」

ビクリと肩を竦めて彼女は此方を睨む。

ああ、逆らう気か。

この店の良さを知らずに、そんな言葉を口にするのか。

笑顔と喜びを届ける為に、店員がどれだけ頑張っているのかも知らずに。

ここを好いて来てくれるお客様が、全員が善人と言うわけではないけれど、それでもここを好いてくれるというのに。

店長が、ここをどれだけ大切に思っているのかも知らずに。

この女は、感情に任せて最低と言った。

それだけで私の怒りは十分な程煮えたぎる。

「……暮麻ちゃん。この子、任せた。休憩室に連れて行って。でも、あくまでも冷静に。いいね?」

「……ああ」

その言葉に従い、彼女を半ば無理やり立たせ、背中を押す。それすらも彼女は拒み、暴れる。

「最悪!最低!」

「話は奥で聞こう」

「はあ!?」

「……私が理性を保っている内に大人しくしろ。ああ、因みにだが私は空手も黒帯だ。……どうする」

「……い、行けば、いいんでしょ……。でも、暴力振るったら訴えるからね!こんな店、潰してやるんだから!」

「……はぁ。あ。明くんは梟ちゃん追いかけてあげて。店の方は僕に任せて」

「……ありがとう、しーさん」

そう言って店を飛び出す明を横目に、私は彼女を店の奥に押し込んだ。

難解恋愛事情

バレンタインのカフェは、いつもより盛況を極めていた。

飛び交うオーダー。料理が完成したと告げる厨房。一階から二階に目まぐるしく移る足は、気を抜けば躓いてしまいそうで。

「繁盛するのも厄介だな……」

そう呟いて、暖房の効いた店内で、滲む汗をくっと拭った。

私が頑なに化粧をしないのは、この汗から起因する物が大きい。休憩はきちんと与えられているが、動くとどうしても体が火照る。汗で化粧が崩れた店員を好む客は、そうそういないだろう。なので、化粧は殆どしない。しても紅をさす程度だ。まあ、一度ニキビが出来てコンシーラを使った事はあるのだが、そういう事がない限りしない。

大層な理由のように思われるかもしれないが、私の考えは至ってシンプルな物だ。

この店をより良い物にしたい。

ただそれだけだった。

だから、忙しい事は辛くもあるが、同じくらい喜ばしい事だ。

この日に、この場所を選んで貰えたと考えれば、接客にも自然と笑みが浮かぶ。

二階の客に料理を運び終え、一階に戻ると、厨房から声が飛んだ。

「暮麻さん、一階奥……っと、Dの席にこれ運んで!」

「心得た」

厨房から渡された料理は、今日うんざりする程見たバレンタインデー特別セット。さらにチョコレートムース。

口には出さないが、正直自分で食べてしまいたい。思うだけだが。甘い物は結構好きだし、肉も好きだ。

「……賄いで残り出ないだろうか」

そう願望を呟くと、剣道で鍛えた足捌きで店の奥へ進む。

Dの席は、確かしのぶと月丸殿、あと店長がいたはずだ。

その記憶は正しく、その席にはその三人がいた。

「なんで教えてくれないのさー!知っているんでしょ、二人とも!」

「知ってるけど、女の子ルール発動なんだよ!あ、暮麻さん!」

「やあ、しのぶ。盛り上がっているようだな。バレンタインデー特別セット二人前にチョコレートムース。注文は合っているでしょうか」

「ああ。チョコレートムースはしのぶに」

「そうだと思ったよ」

くすりと笑って、テーブルに料理を並べていく。

なるべく音を立てないように。それでいて動きが緩慢にならないように。気を付けねばならない事は意外と多い。

「むー……ねえねえ、暮麻さん。私ってそんなに子供っぽい?」

「いいや、女の子らしくていいと思うよ。なあ、月丸殿」

「そ、そうだな……」

「あ、暮麻ちゃん。ホットチョコレート追加して貰ってもいい?」

「承りました。……店長。少しは胃に何か入れた方が良いのではないだろうか」

「うーん……美味しい物でも、何度も食べたら飽きちゃうんだよねぇ」

「あ、じゃあバレンタインデー特別セット食べれば?今日だけのメニューだし!」

そう提案するしのぶに、店長は困ったような顔をした。

「出すのは今日だけなんだけど、試作を食べまくってたんだよ……」

改めて店長の姿を眺める。

店長の藍色の髪に合わせたような、群青と黒のストライプのスーツ。胸には黄色い花のコサージュが彩られ、目に華やかだ。

自身の駄目、と言うより、誰かに見せる為のような装い。

……誰に?

「……ね、暮麻さん!」

「えっ?」

突然名前を呼ばれ、びくりと体が固まる。……全く話を聞いていなかった。

「や、うん、いい、ん、だよ、うん」

店長が何だかしどろもどろ……と言うかショックを受けたように目線をあちこちに散らしている。

「……すまない、聞き取れなかったのだ、考え事をしていて」

「あ、もしかしてチョコのこと?大丈夫だよ暮麻さん!」

「そう、だな……と、しのぶ!チョコのことは……」

「あ、ごめん。まだ内緒だった……?」

しのぶは申し訳無さそうに上目遣いでこちらを見る。

「いや、しのぶは悪くない。チョコは、もう、梟が、うん、教えてしまっていたからな」

そう言いながら、チラリと店長を見る。すると、店長は泣きそうな顔で此方を見ていた。

こんな顔を見るのは初めてだった。店長はいつも気丈で、笑っていて、朗らかで。

私のせいでこんな顔をさせてしまっているのだろうか。私が話を聞いていなかったから悲しんでいるのだろうか。そう考えると、とても申し訳ないと思うと同時に、仄暗い喜びが胸に広がる。

「……暮麻さん?」

「あ、いや。で、何の話だったのだろうか」

気取られてはいけない感情だ。私のせいで、なんて、知られてはいけない。困った性分だとは思うが、しかし簡単には治るものではない。醜いのは重々承知だ。知られてはいけないが、それが私なのだ。

もっとも、そう腹を括ったのは最近の事なのだけれど。

しのぶはパタパタと可愛らしく手を動かしながら、先程の話題を話してくれた。

「えとね、お兄さん、今日はちょっと格好いいよね、って話!」

「ん、ああ。その話だったのか」

「で、どう思う?」

ニヤリと笑って月丸殿は私に問いかけた。その笑みは、正直心地の良いものではなかった。優位な物が見せる笑み。意地の悪そうな笑みだった。

「格好いいと思うが……」

「思うが?」

「少し複雑だ」

「え、なんでだい!?」

店長がまた泣きそうな顔で此方に身を乗り出す。

何故だろう。今日の店長は少しおかしい。

「ど、どうしたんだ店長」

「えっ」

「……もしや熱でもあるのか」

そう言いながら店長に顔を近付ける。

「え、くれまちゃ、え……」

店長のサラリと絹のような手触りの髪をそっとかきあげ、額と額をくっつける。その時、ボンッと音がしたかと思うと、店長の額がみるみるうちに熱くなり、私は内心焦りを感じた。

「熱いではないか!店長、今日はもう休んだ方が……!」

「い、いいいいや、ね、ねねね熱じゃ、なくて、ね……?」

「……お兄さんってこんなに分かりやすかったんだ」

「恋は人を変える、か」

何気なく。本当に何気なくポロッと出た言葉だろう。しかし私にとっては聞き捨てならない単語だった。

なのでバッと月丸殿の方に振り向き、目で訴える。「誰に」という感情をありったけ込めて。

しかし、その思いは、届く前に別の感情が心を一気に支配した。

パシンと肉を叩く音。最低という女の子から発せられた言葉。静まり返る店内。

――トラブルだ。

「……暮麻ちゃん」

「応」

私と店長はその音がした方へ歩を並べた。






―続きます―
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