2013-2-28 21:19
奈湖の国は随分と暖かい。
海からの冷えた風が常の国の山脈によって防がれるからだ。
秋口にしては暑い気温に、水筒から小まめに水分を補給する。
そういえば、と言う必要もない暗い月丸には気がかりなことがあった。
しのぶの様態だ。
「なあ、そろそろしのぶも気が付いたころじゃないか?」
「えー?しのぶちゃんが気になるの〜?」
「当たり前だ」
そう即答すると、ふふふ、と妖艶に笑いながら梟はするりと腕を絡めてきた。
「……梟」
窘めるような言葉に、梟の腕の力はさらに強まった。
「おい」
「え〜?いいじゃん〜。どうせだから、お仕事しながら逢瀬でもしよ?二人連れの方が怪しまれないし〜?」
「いや、厳密にはもう一人いるのだが」
「暮麻はいてもいなくても同じじゃん。喋らないし」
「確かに無言だが、それが逆に怖いというか……」
「え〜?月丸ったら怖がりだね〜」
梟は軽く受け流したが、月丸は背後からひしひしと殺気にも似た視線を感じていた。
道端のおばちゃんが「三角関係よ!」「二人も連れているなんて、どんな色男かしら」などと噂話に色めき立っているが、そんな可愛らしいものではないし、残念なことに色男でもない。
小さな好奇心から背後を確かめたのだが、それを俺は壮絶に後悔した。
般若が、いた。
あれはまごうことなき般若だ。
横紙を唇で食み、指は常に柄にかけられ、瞳は悪鬼羅刹のごとく爛々と輝いている。
呪怨のように何か呟いていたが、それに耳を貸すのは躊躇われた。聞いたが最後、戻れなくなりそうだった。いや、もう遅いのかもしれない。暮麻からの殺気は、それほどに強い。
ならば、と腹をくくり、俺は暮麻に向き直った。
「いったい何を怒っているのだ?」
「……、……。……。……。」
「聞こえないのだが」
「……お ま え の 心 に 聞 け」
そう強く言葉にし、暮麻は再び呪怨を発し始めた。
「何が何だかわからない……」
それは俺の心からの言葉だったのだが、暮麻からの殺気はザワリと強くなった。
「いったい何なんだ……」
重い、重ーい溜息を吐くと、隣の梟が意地悪そうに微笑んだ。
「月丸は無知だってことだよ〜」
「むち……?」
「分からないならそれでいいかな〜。私にとっては好都合だし?」
「意味が分からない……」
その後、酒場などを回ったのだが、暮麻に怯えた店員や客が逃げたせいでたいした情報を得ることはできなかった。
そこまでは、良くはなかったのだが、最悪ではなかった。
最悪は、その後に襲いかかってきたのだ。
「どういうことだ、明」
「そのまんまの意味っすよ。ここは通せません」
宿屋の端にある、喧騒から遠ざけられた一室。そこにしのぶがいるらしい。らしい、というのは俺が実際にその部屋に入ったことがないからだ。
明はその部屋に続く廊下で、通せん坊するように両手を広げていた。それも、笑顔で。
「何故、俺が部屋に入ってはいけないんだ。理由を説明しろ」
「理由ねえ……。分からないのか?」
「何がだ」
「入れてはいけない理由」
「……分かるわけがないだろう。説明も何もされていないのだから」
「はぁ」
大げさに溜息を吐かれ、理解できない困惑と憤りに体を支配される。
「貴様……!」
胸倉を掴み、引き寄せるように顔を近づける。いきなりの動作だったが、明は倒れることなく平然と笑って見せた。
「楽しいか、こんなことをして」
「それ、そのまま月丸さんに返しますよ。楽しいですか?」
「楽しいわけがないだろう!お前は、俺をおちょくってそんなに楽しいのか!?」
「おちょくっている?そんなわけないでしょ。言わないとわからないですか?俺は、あんたに怒っています」
「――何故だ」
「それも言わないとわかりませんか?」
そう囁いた明の顔に浮かぶのは、明らかな嘲笑だった。その容赦のない表情に、ぞくりと肌が粟立つ。感じたのは、明確な恐怖。いつも笑って、従順で、ほんの少しからかうような表情は、微塵も浮かんでいなかった。
「じゃあ僭越ながら俺が説明させていただきます」
紳士的な動きで、やんわりと俺の手をどけて明は笑った。
「月丸さんがしのぶちゃんを困らせているから、俺も姉御も怒っているんですよ」
「しのぶを……?」
「ありゃ、まだ分からない?」
明は呆れたように首を振り、目を細めた。
「しのぶちゃんが倒れたのは、月丸さんのせいだ」
「なに、を……」
「梟さんも悪いっちゃあ悪いんだけど、それはまた別として。後で怒っておく。でも、月丸さんは一番いけない。一番しのぶちゃんを困らせてはいけない。それが分からないのなら……」
「私が、貰ってしまいましょう」
涼やかな声に明の背後を見やると、銀髪の麗人が微笑んでいた。
「な、に……?」
「宿木さん。しのぶちゃんはもういいのか?」
「しのぶさんは今眠っておられますよ。経過は好調です」
「おい、宿木と言ったか?どういうつもりだ」
宿木に駆け寄ろうとすると、明の太い腕に阻まれた。明はあくまでも阻むつもりらしく、押しのけようとしてもびくともしない。
「おや月丸さん。どういうも何も、そのままの意味です。では、明さん。そのまま月丸さんを緊縛してしまいなさい」
「「え」」
俺と明の声が重なった。
それだけ唐突で脈絡のない言葉だった。
「俺、縛り方知らないんだけど……」
「ぐるぐる巻きにしておけばいいんです。解けなくても、暮麻さんがいるでしょう?」
「ああ……姉御危機一髪か」
「なんだその不審な名前は!というか縛られる前提で話を進めるな!」
「姉御危機一髪ってのは、姉御がぐるぐる巻きにした敵の縄だけを切れるかどうかっていう遊びで。姉御がわざと切るかどうかも賭けるという心理戦が行われてですね……」
「そんな怖い話しながら縛るな!!!!おい明、いい加減にしろ!!!!!」
「俺、宿木さんには絶対服従なんで……」
「そういうことで」
「やめてくれええええええええええええええええええええええ!!!!!」
俺の心からの叫びは、空しく響いた。