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空が白みだした。

街路樹に巣を作った小鳥がさえずっているのを遠くに聞きながら、僕は身支度を始めた。

隣のベッドではアシエルが泣きはらした顔で眠りについている。

昨日散々泣いたから、きっともう暫くは眠りについているだろう。

なるべく音をたてないように、トーストしていないパンにバターとジャムを塗って、自分で入れたインスタントコーヒーを飲んで。

「――行ってきます」

小さく呟いて、僕はまだ人通りの少ない道に足を踏み出した。








「やっぱりいると思った」

「……なぜここにいるのです」

大人びた、世界に対して斜に構えているような青い瞳で、イリューシャは此方を振り返った。金糸のような髪がふわりと広がるのを見て、僕は薄く微笑む。

「僕の勘は正したかったようだね。やっぱり君はここにいたんだもの」

美術オタクでミーハーで、なかなか来れない位置にあるイリューシャの両親が、一日見て回るだけで満足する筈がない。その勘は見事に当てはまり、イリューシャは今日もここにいた。あの青い世界の絵の前に。

「僕、勘と運はいいんだよ。おはよう、イリューシャ」

「いらない特技をお持ちのようです。――おはようございますです」

「うん」

それから僕らは会話する事もなく、ただ絵を見ていた。

昨日見た時より物悲しく感じるのは、きっと僕の心情が変わったからだろう。楽観的な人間と悲観的な人間が同じ絵を見ても感じ方が違うように。

暫くしてから、僕はゆっくりと口を開いた。

「――今日も君にはこの絵が哀れに見えるのかい?」

「はい」

即答。つまり彼女は昨日から揺らいではいない。

「なんで哀れなのかな」

「……、……この絵はどうとでも捉えられるからです」

「と言うと?」

「タロットカードは知っていますか」

「占いに使われるということくらいは」

「タロットカードは、位置によって捉え方が真逆になるのです。いい印象を受けるカードでも、逆に出れば悪い意味になるのです。そして逆もしかりなのです」

「……つまり、この天使は」

「――おそらく、堕落を意味するのでしょう」

言葉を選んでいるようなイリューシャの表情を、確認したくなった。でも駄目だ。そこは彼女の矜持が許してはくれないだろう。

彼女に今逃げられでもしたら、ここに来た意味がなくなってしまう。

「ねえイリューシャ。朝ご飯は食べた?」

「今何時だと思っているのです」

「えっと、」

ケータイをパカリと開いて、画面の端に映る時間を確認する。

「十時二十三分だね」

「この時間で食べていないのは自己管理のないやつです」

「だろうね。でも僕は、君が自らの意志で食べようとしていないかもしれない。そう思ったんだよ」

「……」

イリューシャは沈黙で応えた。

ちゃんと食べているのなら、イリューシャは『馬鹿らしい』と反論するだろう。だが、そうしない。つまりは無言で肯定しているのだ。

アシエルならサラリとかわすだろうが、イリューシャはまだ幼く、アシエルより他人と関わっていない。だから、かわしかたを知らない。

これでかわしかたを知ったら恐ろしいな、と思いながら、横目でチラリとイリューシャを見やる。

「……」

「……」

――目が合ってしまった。

「お腹は減っていない?」

目があった、と言うことは、イリューシャも此方の様子が気になったと言うことだ。

「お節介という言葉を知っていますか」

「君にとっては要らぬ世話かな?」

「イエス」

一番あってはならないのは、僕に対する無関心。

「――そうやって、周りの人間を全部否定するのかな?」

「どういう意味ですか」

「知りたいなら休憩所で教えてあげる」

関心を引いて、引いて。話ではなく対話をしなければならない。アシエルが怯える要因を取り除かないといけない。

皮肉っぽく笑い、僕はイリューシャに手を差し伸べた。

視線を彷徨かせ、ギュッと胸の前で拳を握りながらも、イリューシャはおずおずと手を重ねた。

「……ハンバーガー」

「分かった。奢ろう」

第一ミッション完了。
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