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空木が咲く前に 五十八

からんころん。下駄の音が静かな夜の街に涼やかに響く。
常の国は、意外にも静寂な夜を過ごしている人間が多いみたいだ。耳をすませば酔っ払いの怒号よりも、どこかの民家からの鼾の方が耳に入る。武家屋敷方面だから、というのもあるだろうが、それにしても静かだ。秋の虫が鳴いている音と下駄のからんころんという音が耳に心地いい。心地いいのに、それと対比するかのように胸の騒めきが大きくなってくる。
「なあ、明。静か過ぎないか?」
やや眉を顰めてそう問うと、明は背中をしならせ、目を伏せたまま少しだけいつもより高い声で返した。
「常の国は武の国だから、ってのはあると思うよ。簡単に言うと、堅物。国がどうなっても律儀に武士道守っているんだろうね」
「……それなら、自分の国の治安も気に掛けるものじゃないのか?」
「見たまま、ならね」
囁くようなその声に、俺は眉間の皺を更に深めた。
「その物言いは、まるで――」
心に呼応するかのように、手に提げていた提灯が揺れた。明が嘘やごまかしを言っているようには感じられなかった。だからこそ、不安が募る。
「うん。多分だけれど、合ってるよ、その考え。この国は、おかしい。何かが不安定だ。何かが演じている。何かが狂っている」
そう連ねる明の顔は、先ほど見たように澄ました顔だったがどこか楽しそうだった。今にも鼻歌でも歌いそうな、下駄で拍子を取っているかのようだった。
「狂っているのはどっちだか」
当てつけのつもりで囁いた言葉と、先導していた丁稚が足を止めるのは殆ど同じだった。どこか抜けたような困り眉は玄にどこか似ていて。道案内をしてくれた丁稚は、お世辞にも整った容姿をしていなかったが、その分頭はいいのだろう。武家屋敷の裏口からコンココンココンコンコン、とおそらく決まった合図をしてから「酸漿いらずですがご入用でしょうか」と淀みなく告げた。それも合図だったのだろう、裏口から少しやつれた様な中年の武骨な、正に武人といったような男が顔を出し、俺たちをじっとりと見てから僅かに口を曲げた。
「今日は子供じゃないのか?」
しゃがれた声で武人がそう問うと、丁稚は「そろそろ初物が終わるころだろう、と思い指導役を用意させて頂きました」とどこか力が抜けそうな顔で、しかしはっきり聞き取れる声で言って、武人に向かって手を出した。武人はそれを見て、困ったように顔を顰めて首の後ろを掻く。
「買ってください、後悔するような方たちではないから買ってください。そうじゃないと私帰れません」
「そう言われてもなあ……。こんなに大きな男は少し……」
もごもごと言いにくそうにしながら武人は俺たちを見た。まあ、お世辞にも少年とは言えない様な、寧ろ普通より一回りは大柄な男に金を出すことに躊躇いを覚えるのは当たり前だろう。
思うに、この武人はいつも少年を、と命じられ、その言葉通りに少年を買い、この丁稚に金を払っていたのだろう。それを数回は行っていた筈だ。その慣れが言いよどむ理由の一つでもあるのだろう。
人買いをしている事を知っている人間は少ない方がいい。金を積まれても口を割らない忠義に満ちた人間か、金を払っている内は裏切らないような人間か、任せられるのはそのどちらかだろう。
どうしたものか、どちらであっても決定権のない人間に何を言って潜り込むのか。そう思って明をちらりと見やると、明は小さく息を吐いてから、にんまりと、牡丹の花が咲き誇るかのような笑顔を浮かべて、困惑した武人に近寄りふぅ、と色気を滲ませた吐息で悲し気に笑った。
「買ってくださいまし。どうか、買ってくださいまし」
「あ、ああ?」
「わっちには興味がないのでしょうか。困りました。何をしても銭を稼がなければならないのです。どうか、どうか」
口の前に曲げた人差し指をやり、左手は胸の前でギュッと、それでいて可愛らしくこぶしを作る。一瞬、あり得ないし馬鹿げていると自分でも思うが、明が年端もいかない可愛らしい少年に見えて、自分自身が末期になったのかと思った。
しかし、明の目の前にいた武人は呆けたような、蕩けたようなだらしない顔をして胸元を漁る。明から目をそらすことなく、震える手で金を差し出した。
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