スポンサーサイト



この広告は30日以上更新がないブログに表示されます。

空木が咲く前に 五十三

「まあ、こういうことで」

明はそう言ってつまらなさそうに息を吐いた。夕暮れの赤い日差しの中なのに、明の顔色はほんの少し青白く見えた。

ふぅ、ともう一つため息が暗がりの室内に落ちる。今度のそれは玄のため息であり、その印象は明のついたそれとはまったく逆の色合いを持っていた。

満足、だろうか。情事の後につくそれに似ているように感じた。

実際に玄は口尻をにやりと上げていて、目元には色がにじんでいた。

「いやはや、そうか、そうですかい。赤鬼がまさか人工物だったとはねえ。これはこれは」

玄はくつくつと愉快そうに笑い、くるくると手首を回した。

「しかし、相変わらず赤の言葉は足りないものばかりだ。真座のお方とはまったく逆だねえ。いや、客商売のときと逆と言うべきか。これはこれは」

くるくる、くるくる、と中途半端に開いた手のひらが回る。

嫌な動きだ。拱いているような、手繰り寄せているような、嗜虐者の動きだった。

玄はくるりくるりと回しながら、じとりと明の顔を見やる。

「聞きたいことが幾つか。さっきも言いましたが、赤の言葉が足りないと感じたそのせいですからね。まず、名前はいつ捨てなすった?」

「いつ……っていつだろう。大人の中にすっごい訛った口調の人がいて、その人から面白がるように広がって……。剛さんもそう呼び始めたから俺もそう名乗りだした感じ、かな。いつと言われれば、三つ目の刺青の頃かな」

そう答える明の声には、いつものような抑揚がなかった。目元にも溌剌とした力がない。

しかし、明から力を感じないわけではなかった。例えるなら研ぎ澄まされた切っ先。それを抜き身で携えているような、そんな威圧感がある。俺は知らぬ間に手のひらに汗が滲んでいたことに気がついた。

何故明からそんなものを感じるのだろうか。明の過去は、凄惨だったがありふれた話だ。芝居小屋にでも行けばもっと涙を誘うような、痛みを感じるような話がありふれている。なのに何故俺は明を心底恐ろしいと感じているのだろうか。

蛇が住む穴倉が目の前にあるような感覚だ。明の琥珀色をした瞳が、蛇のそれと重なる。

「そうですか、それは何ともまあつまらない経緯で」

「まあ、玄さんはもっと物語がある経緯のほうが好きなんだよな。でも真実なんてそんなものだよ」

真実。真実と言ったのだろうか。もしそれが真実で真実なのだろうか。

「赤、もう一つ、もう一つだけ教えてくれないだろうか」

玄は蕩けているような惚けているような、何ともだらしない顔で強請る。やめてくれ、そう叫びたかったのだが、動けない。言葉を重ねていくたびに、明から発せられる鋭利な気配が重くなっていく。玄もそれに気付いていないわけではないだろう。なのに、質問を重ねる。穴倉の蛇に、刺激を与え続ける。

明の琥珀色の瞳が、わずかに赤みを帯びていく。緩く力を抜いた瞳が、気味の悪い月の様で。

ぞくり、と背中に冷たい物が走る。なのに何故だろうか。腹の奥が燻るような、そんな熱さも同時に感じていて。

それはきっと玄が求める物と同じなのだろう。

「もし、もし、お前の語った剛さんがここにいたとして、それが任務に支障を出すものだと知っていて、赤は、お前は、命があれば、俺を、殺すか?」

それを聞いて明は一瞬キョトンとした顔になった。

やめろ、そんな白々しい顔をするな。

そう思いながらも、ジリジリと腹の奥は燻る。

明の表と内側がブレる度に、火の粉が舞って、臓物が、喉が、脳みそに火が付く。

明はそんな俺を一瞥さえしようとせず、朗らかな、咲き誇る花の様に笑った。

「当たり前だろ、殺すわけないでしょ!」

その時、俺の中で火柱が燃え盛った。ごうごうと燃えるそれは、行き場のない熱さで俺を焦がす。

明の語った過去は事実かもしれない。しかし、語ったその人物からの作為は無かったのだろうか。

訳が分からない。この考えは自分だけの妄想かもしれないし、実際のことかもしれない。しかし実証が出来ない。

ただ、確実にいえるのは、この中で誰かがまともではないと言うことだ。

下卑た笑いを零す玄かもしれないし、にっこりと笑う明かもしれないし、若しくは、俺自身がそうなのだろう。

ふと乾いた笑いが零れた。からからと、小さな笑いが室内に小さく響いて。

ああ、壊れている。しかしそれの何たる甘さか。

目の前の二人がどんな心境なのか知らないし分からない。しかしそうであることが、一歩引いているこの身であるからこそ、滴り落ちる密を受けることが出来る。

「では」

喉が酷く渇いていた。それでも言葉は紡がないといけない。紡いで、自分から話を一刻も早く離さないといけない。蜜が足りない。

「明の話が終わったようなので、俺のあらましを。俺は双子の弟が奴隷商人に捕まって、傍に居るために俺も奴隷商人に捕まった。その場所が木津坂の麓。開放されたのは月丸に助けられて、だ。これでいいか、玄さん」

手短に、手早にそう告げた。

にぃ、といつの間にか口の端しが三日月のように上がっていて。俺は酷い高揚感で満たされていた。

炎の熱さと、甘露の味が、喉を焦がす。楽しい、と。何故か心からそう思っていた。

言い終わってから玄に視線を向けると、玄はひくひくと痙攣しながらだらしない笑みを浮かべてぐらりと傾いだ。

ドタリと倒れる玄に、明は人間味がありそうなため息をつくと、困った顔で此方を見た。

「玄さん、キメ過ぎるとこうなるんだよね。……なんだろう。俺たちの過去って麻薬か何かなのかなあ」

眉を八の字に下げる明に、俺はふと笑って返した。

「俺にとってもそうだったよ」

どうしてそう感じるのは分からなかったけど、「何だよそれ」と今度は本当に困ったように笑う明に、そうなのだろうな、と俺は一人小さく呟いた。

空木が咲く前に 五十二・下

「小僧、文字は読めるか」

剛さんはそう唐突に言った。何故そんな事を聞かれるのか、真意は分からなかったのだけれど、俺はただ、この人にだけは嫌われたくなくて、それでも嘘をつくことも出来なくて、遠慮がちに首を振った。

「まあ、そりゃそうか」

郁子もなし。そんな感じだった。

「それなら、ああ、そうだな。ああ、そっちの方がいい。お前には、まず考えるということを教え込もうか。空っぽに小手先の知恵をやっても所詮小手先だからな。名前は何だ」

「あ、あきれあ」

言葉を口にしてから、俺は自分の舌が酷く縺れている事に気が付いた。最初の発音を二度繰り返すつもりは無かったのに、一度に単語が出て来なくて。そして自分の名前なのに、酷く懐かしい気持ちになった。

「そうかそうか。外つ国の名前か」

「外つ国……?」

「山を越え川を越え海を越えた先にある、お前の故郷だ」

「こきょう……?」

「ふるさと、とも言うな。どちらでもいい」

「こきょうとふるさとって、なに」

「意味を問うか。良いぞ」

そう言いながら、剛さんは愉快そうにくつくつと笑った。

「故郷は、生まれた場所であり、育った場所であり、血や魂が本来在るべき場所のことだ」

「……よく、分からない」

「分からない、じゃない。分かろうとしろ。思考を止めるな」

「っ……!」

大きな声ではなく寧ろ今までより静かな大きさだったが、強い言葉だった。それは、剛さんの内側の強さを表しているように思えた。

俺は膝の上でぎゅっと拳を握りながら、靄のかかった頭で必死に考えた。何故剛さんは、こんなに強い声で俺なんかに告げるのか。不思議で不思議でならなかった。

故郷。外つ国。

昔、父親が穏やかに語ってくれたその場所。色んな色があることが珍しくない場所。ここよりも自分たちには優しくて、ここよりも少し乾いた土地。

「受け止めてくれる場所……?」

細い声だった。いっそ蚊の鳴くような声と言ってもいい位の声だった。それなのに、ふわり、と何かが広がる感覚が胸にあり、俺は瞼に込めていた力を、少し弱めた。それだけだったが、世界が少しだけ、広く感じられた。

そんな俺に対して、剛さんは半眼になって「そうかそうか」と小さく呟いた。



それからの日々は、体力の勝負だった。

日の出より少し前に目覚め、大人たちの為に山を少し下った川から水を汲む。水は生活の基本で基準だったので、多ければ多いほどいい。食事にも、普通の水分補給にも、顔や体を洗うのにも使う。流石に風呂というものはなかったが、もしあったら俺の一日は水を汲んでくることだけで終わっていただろう。ほとんど獣道のような山道を、肩に渡し木をして桶を二つかせぎ、頭の上にも一つ桶を載せて三往復。

この仕事は最初からさせられていたわけではなかった。逃げられるかもしれない、ということで俺は一定の範囲の山道しか教えられていなかった。山賊の山道というのは巧妙に作られていて、道沿いに歩いているだけだったら、気づいたら同じ場所を回っていたことがあった。

俺が水汲みをさせられ始めたのは、逃げないという確証が大人たちに芽生えたことよりも、剛さんがそうさせろと命じたことによるものが大きい。その頃、俺はやっと大人たちの中にも順位というものがあることを知った。一番上が剛さんで、次がその息子の都。その下は力の強い順だったり、年の順だったり。規則性があるようでない。大人というものはとんと不思議だった。


しかし、不思議だった、で終わることは出来なかった。剛さんがその次を求めてくる。考えろ、と口に出して言う。それだけで俺は必死になって思考を巡らせた。巡った先が『剛さんの答え』と合わなかった所で、やっと答えを得られる。こういうものだ、と教えられる。

その頃の俺にとって、世界の中心は剛さんだった。剛さんが求めれば人は殺すし、脅すし、わざと捕まりもした。水攻めも棒叩きも、辛いには辛かったけれど、剛さんのこげ茶の瞳を思い出せばそんなこと些細なことだった。

あの瞳を正面から見たい。見られたい。映りたい。

そのためなら、化け物のような真っ黒な瞳の持ち主にどうされようと構わなかった。追放の刺青だけですむために伽もしたし、やっぱり殺しもした。祟りが起こるぞ、と教えられた言葉を、教えられたように笑いながら言いもした。

俺はそういったことを繰り返して、その度にあの山に戻って、剛さんに抱かれた。剛さんの稚児、と周りの大人から呼ばれ、ぶたれることは本当に少なくなった。ただ、稚児という言葉の意味を、最後まで教わることはなかったのだけれど。

そうやって日々を繰り返し、季節を過ごし、色んなことを知るようになって、それでも俺は表面しか出来上がっていなかった。剛さんに鍛えられた、鋼鉄のような表面は、今になれば薄っぺらいのだけれど、逆にそれが恐怖を与えていたようで。いつしか俺は、剛さんの作った赤い髪の少年は、その山を下った街道の坂でこう呼ばれていた。木津坂の赤鬼、と。そう呼ばれていた。
<<prev next>>