スポンサーサイト



この広告は30日以上更新がないブログに表示されます。

対話

さっき記事を書いて思ったんだけど、たぶん私が文章を書くときは「対話」だ。
ずっと頭の中で自分と話して、自分に話しかけてる。
しかも、自分が話しかける側と聴く側を両方同時にやってる。

画面に文字が入力されていくのを見るのは不思議だ。
自分が打っているのだから当たり前なのだけど、例えば、勝手に画面に文字がズラズラ打たれて異ったら、たぶん誰かと通信してる
気分になると思う。
チャットみたいに。
いや怖いな。なんもしてないのにめっちゃ文字並んだらこわっ。
でも、まあ、半分くらいそんな気分。

私の半分は私のもう半分に語りかけてる?質問してる?し、半分は書かれる文字を見てる。
みんなこんなもん?考えるって。

で、ここ数年感じてた「考えられない」「自分を認識したくない」ですが、もしかして「やろうと思えばできるけどしないだけ」ではなくて「できない」なんじゃないかなあと。
根拠はなくて、ただ反対に考えてみただけ。

できないのはなんで...?
昔は結構できたのに。

できない理由が見つかったら、できるようになるかな?
と思って考えてみてる。

思い当たるのは、また私は自分の感情を否定してんのかな。
○○とおもってるのを認めたくない、みたいに。
それが脳みそ全体のノイズになってたら堪ったもんじゃないけど。
そうなのか...?

劣等感が邪魔

環境は違うんだけど前も思ったことがある。
いや、邪魔だわ。

そんなとき「劣等感なんかに邪魔されれてる〇〇という気持ちが弱い」「〇〇が強ければそんなこと気にしないはず」って言われそう。一部言われた。

劣等感というか「人の目」なんだよね。
他人(=自分以外の人間)が私をどう思ってるのかが怖い。
気になるというより、その先の「怖い」
いや、まあ気になるけど。
気になるのは怖いからだと思う。

「怖い」が先か劣等感が先か。

根拠はないんだけど「劣等感」が先な気がするなあ。
自分以外の人間より私は劣ってるから、他人が怖い。
自分以外の人間より私は劣ってる=劣等感
か?

と、すると劣等感を解消すれば人の目が怖い⇒人の目が怖くて動けない(考えられない)
が解消されるのか……?

とも思うけど本当にそうなのかは不明。
劣等感ってどっから来てるの…?
親? ほんとに? 納得できるものは?(自分が)
逆にむしろ人が怖いから劣等感になってるんじゃないの…?

そんなことしてる場合かとか、それが最善かとか、
それより具体的な悩みを吐き出せる相手を作る方が解決早いのでは?
とか色々思うけど、
今の私が思いつくことを書いてる。

自分が嫌いになっていく

生きるにつれて、どんどん自分が嫌いになっていく。
歳を取れば取るほど、自分が嫌い。気持ち悪い。

普通の人はなんでこうならないんだろう。
あれ?逆になんで自分はなるんだ?

確かに解毒で激しい自己嫌悪は減ったけど、一日一日自分に対しての「嫌悪感」は増えて積み重なっていく。
改めて考えるとなんでだろう...。

よく聞くのが「自分のダメなところにばかり目を向けてしまうから」
うーん、それはあるな。

じゃあ積極的に「良いところ」見ればいいかというと、それも気持ち悪い。
「良いところ」を認める...より前の認識すらしたくないので思考から消す。
いわゆるホメ療法が気持ち悪くて仕方ない。

というか、この「気持ち悪い」を嫌悪感という言葉に当てはめてあってるのかわからないけど、どうなんだろ。

自分の全部が気持ち悪い。
......という訳じゃないな!???
今書いててびっくりしたわ。

ここのブログはそこまで気持ち悪さを感じないし、自分の創作物は寧ろ好きだわ。
あれ???

今自分が気持ち悪いと思ってるのは、今日一日の自分を客観的に見たときの自分の姿だ。
分かりにくいけど、例えば今日のお昼に何やってたかな、とそのときの自分を思い浮かべると気持ち悪い。
いや、きもっ。

今日の考察(という程でもない)はここまでにしておこう。
自信のある人間になりたい。
ハキハキ喋れる人間は何を考えてるんだろうか。
笑われたり、暴力振るわれたこと無さそうだな。
安心があっていいな。
今は練習あるのみなのかな。
は〜、するか練習。前よりは前進してるよ。
おっ、褒められるじゃん自分。
若干キモイけど。

欲しいのは「許し」

自己肯定感とよく聞くけど、正直ピンと来なかったのもあって「自分にとって自己肯定感とはなんぞや?」とずっと考えてた。
で、ふと思いついたのが、
「肯定してほしい/肯定したい」ではなく「許されたい」なのでは。

私は自分の感情、行動、思考、自分の存在そのものを否定してきて、実家出て解毒始めて少しずつ肯定できるようにはなってきたんですが。

例えば、
苦しんで”いいんだ”
楽しいんで”いいんだ”

とか。「〇〇していい」と思うことを、「自己肯定」だと思ってた。
いや、今これ書いてて思ったけどやっぱ「許し」だな。

苦しむことに許しが欲しいし、楽しむことに許しが欲しい。
「許されたい」のか「許可が欲しい」なのかはまだわからない。

あー、自分の存在は「許されたい」だな。
自分で自分を肯定したいのではなくて、自分以外の他者(や世間)に「許されたい」

「楽しんでいい」と他人に許されたい/許可が欲しい。
自分が感情を持つことを許可されたい。

なんで、他人に自分の許可を求めてるんだろうなあ。


人間、怖くない(確証はない)

この記事は自分の心象整理なのでぐだぐだです。
(というかブログ自体が)


今ちょっと迷ってまして(何をというのは身バレ怖くて書けない)
そこで気づいたのが、

・私は相手のことばっかり考えてるな
・と思わせて自分のことしか考えてないな

「〇〇な自分なんかを受け入れるとか、この人は頭おかしいんじゃないか」
って考えが今までの人生で当たり前だったけど、
結局これって「自分の考え」基準の浅っっい考え方だよなと。

「あなたを選んだ人の立場に立って考えてみては。あなたは自分がどう思われてるかしか考えていない」
と言われたのが衝撃的で。

た、確かに……!!!!!
寧ろそれしか考えてない。

申し訳ない…。
この世は悪人ばかりじゃないのに。
出会う人出会う人全員を「敵候補」として見てた。

もうっし訳ない……!!!
勝手に脳内で悪逆非道の人物にしてしまって申し訳ない…。
大変失礼なことをしてしまった。

某公共放送のね〇りんぱ〇ぽりんで
「自分のことしか考えてなかった」
というセリフを聞いてはっとした。

自分以外の人間、自分に関わってくる人間全ての性格を、勝手に「酷いこともできる人」と思うのは自己中心的で失礼なことなんじゃないか。
自分を守るためになんてことを…。

こんなにいつも優しくしてくれて、今までの疑心暗鬼は実現したことないのに。
もっと他人のことを考えたい。
っても、他人のことを考えるには「余裕」がいるんだよな。
その「余裕」を得るまでに三十年ぐらい掛かった。

「人間、怖くない」を感じるまでに(確証はない)三十年掛かった。
あと、自分自身が「ただで殺されるか」って強さをやっと身につけられた。
少しぐらいならお前に攻撃できるよ。
<<prev next>>