たった一口、フォークに刺した少しの野菜を口に運ぶだけで腕が千切れるように疲労する。焼印が疼く。父が同じ屋敷に居ることを知るだけで身体が萎縮する。
俺はホールをゆっくり見渡した。
見覚えのある顔もあるし、見覚えのない顔も多い。
「アキさん。来てたんですか」
声を掛けて来たのはハイノだった。彼はヘイトの出身ではないからなのか、元来の気性からなのか、昔から俺に気安く接してくれる。
ヘイトの人間ならこうはしない。能力者のことを忌み嫌うから俺に笑顔を向けることなど有り得ない。
「相変わらず、お変わりないんですね」
その意味を少し考えて、考えるのを止めた。
他の誰かの言葉なら、俺はこんな風には思わなかった。でもハイノが言うから。
まあ、いっか。
“変わらない”ことは俺が能力者であり忌々しい存在であることを意味するから、他の誰かが言えばそれは明白な悪口になる。でもハイノは違う。ハイノが言うとそれはなぜか悪口には聞こえない。
身構えたことを恥じるくらいだ。
俺はハイノに笑い返した。
「ジョセフはアキさんとは違うんですか」
ハイノは俺の顔を興味深そうに眺めて尋ねた。
「ジョセフ?」
「家事役の。あれ、ご存知ないんでしたっけ」
「家事役ってルンゲがやってませんでしたっけ」
「ああ」
「それが、」とハイノが言い掛けて、遮られた。
「いいの?」
「え?」
突然話し掛けてきたモネは挨拶もなしに会場の奥の方へ目配せした。
「貴方の連れが、お父様に声掛けられてますよ」
見るとモネの目線の先、カーテンで見通せない場所がある。父が順番に親族と挨拶するので区切られている場所だ。
「ありがとう」
俺が礼を言ってもモネは答えずにハイノの方へ顔を向けて、始めから俺との会話など無かったかのように振る舞った。それでも俺はモネに感謝した。
ハイノを見ると、彼は「そっちを優先してください」とでも言うような表情をして、困ったように微笑んだ。
モネは嘘を言うような人間ではない。
俺はモネを信頼して父のところへ向かうことにした。そこに恭博さんがいるのは確かだ。
恭博さん、見ないと思ったら。
無茶なことしてたりして。
俺は静かにしかし足早にカーテンの前まで歩いて、小さく外から声を掛けた。できる限り穏やかで優雅な声音を使ったのでカーテンの外を見張る使用人にも怪しまれなかっただろう。
「アキです。お父様、ご挨拶をさせていただいても宜しいでしょうか」
少し待つと中から若い女性が顔を出した。
「中へ、どうぞ」
その女性の声はなんとも聞き心地が良かった。ユーリみたいな低音の声とも違う、高く通る声とも違う。彼女はきっと間違いなく父と今最も親しい人だと直感で分かった。
「失礼します」
名前を聞いておくべきだと思ったけれど、恭博さんのことが気になった。
俺は女性のことは後にして、とにかく父とそこに居るらしい恭博さんと対面する為にカーテンをくぐった。中には料理の良い香りが漂っていた。
恭博さんは父の真正面に立っていた。仁王立ちしていた。
「お父様、こんばんは」
掛けるべき言葉が見付からず、俺は仕方なしにそんなことを口走った。
父は、しかしながら、上機嫌だった。
恭博さんの方は少し複雑そうな変な顔をしている。俺を見ても何か言うこともなかった。
「お前は、挨拶が遅い」
「すみません」
「まあいい。彼のことを私に紹介しないのか?」
父は恭博さんを見た。
恭博さんは父に断りもせずに近くの長椅子に腰掛けた。
この二人の距離感が分からない。
「こちらは恭博さん。ずっと、お世話になっている人です。案内状が来たので、あの、僕が是非にと誘いました」
父は恭博さんをじっと見ている。
「ようこそ、我が屋敷へ。食事会は身内とその知り合いでやっているものだから、粗末なもので驚かれたことだろう」
「そんなこと、ありません」
恭博さんは如何にもな社交辞令で答えた。父はそれに機嫌を悪くすることもなく話しを続けている。
「しかし、不思議な名前だ。ご出身はどちらですか」
恭博さんは父のことは見ずにテーブルにあるドライフルーツをつまみながら答えた。
「マイルハイ=フロントです」
「なるほど。それは、遠い」
「確かに遠いですよ。こことは別世界です」
恭博さんはまたドライフルーツをひと掴み取って、そのうち少しを口に入れた。恭博さんの言葉や動作には楽しさや優しさはないけれど、憎しみや嫌悪がある訳でもなかった。
別世界。
うん、恭博さんは正しい。
「お父様にも、前に一度、ご報告は差し上げたんですよ」
父が俺を見た。
身体が、固まる。
能力の中には人の身体的自由を奪えるものもあるし、或いは今身に付けている拘束具みたいなものもある。俺にとっての父は、それだ。
言葉もなく自由を奪う。
俺は話したいことを見失う。
大丈夫だと、思ったんだけど。恭博さんが大人しくして、いつもみたいに長椅子に腰掛けたから。
でも、駄目だった。
手が震えてる。
なんだっけ。
何を言おうとしたんだっけ。
「恭博くん」
父の声だった。恭博さんを父が呼んだ。
「何?」
恭博さんの声には明らかに苛立ちが混ざっていた。『恭博くん』呼ばわりされたのが嫌だったのだろうか。父と恭博さんだと、恭博さんの方が年上になるから、当然と言えば当然か。
「君は、能力者なのだろうか」
「そうっすよ」
「私はね、恭博くん」
父は長椅子の恭博さんを見据えて言った。
「私は能力者が嫌いだし、能力者に招かれた能力者とは、この街では不吉だとされている」
「へえ」
「私は、能力者は嫌いだが、これのことは愛している」
『これ』とは、俺のことだ。
「アキ、だから、これからはこの屋敷で暮らし、恭博くんとは離れなさい」
ふざけるな、とは言えなかった。
手だけじゃない。
全身が震えていた。
怒りの為じゃない。
恐怖の為だ。
「……やすひろ、さん」
俺は縋った。恭博さんが助けてくれると信じて。だから上擦った声が呼んだのは、勿論、だから、恭博さんの名前だった。
他にどんな言葉を話せただろうか。
恭博さんは手のひらに余っていたドライフルーツを纏めて口に放り込んだ。
「俺はお前を助けるよ、アキ。お前が撃たれて死ぬ前に、俺は敵を出し抜く積もりだ。だけどなあ、アキ。これはそうじゃねえわ。お前はただ、親父と話してるだけじゃねえか。なあ、違うか?」
恭博さんは長椅子から立ち上がった。
「アキから離れろって言われたらな、俺はそんなことは絶対にしないと答える積もりだったけど。これは、違う。お前はお前自身の手でその拘束具を捨て置くべきだ」
なんでそんなことを言うの?
恭博さんは「じゃあ」と言ってカーテンを潜った。
「あ、それ、すごく美味しいですね。持って帰りたいくらいです」
恭博さんが振り返ってそう言った。
「砂糖漬けとクラウンハウンドというケーキも有名ですから、ぜひ食べて行かれてください」
父が答えると、恭博さんは「そうします」と言って本当に去ってしまった。
なんで?
「アキ、ここへ来なさい」
父がそう言って手招きした。
「アキ。早く、ここに来なさい」
俺は恭博さんには助けてもらえないことを覚悟した。父には逆らえない。自分で拘束具を捨てるなんて、できる筈がない。
俺はふらふらと歩いて父の足元に跪いた。
「悪い子だ」
父はそう言って、俺の肩に足を乗せた。力を入れればいつでも蹴れる、そういう態勢だった。
視界がチカチカする。
白い霞が掛かって痺れる。
腿が引き攣る。
俺は父に服従したくて堪らなくなった。腹を見せて足を舐めて平伏したくて堪らなくなった。
逆らわないから、逃げ出さないから、なんでも言うことを聞くから、だから酷いことはしないで!
身体に刷り込まれた恐怖は簡単には消えない。太腿に焼き付けられた痛みは今でも夢に見る。あんなことは二度と嫌だから、もう味わいたくないから、だから絶対に服従していることを理解して欲しくて惨めで賤しいことでもなんでもできる気がする。
「お父様、ぼくを、叱ってください」
父はぼくの言葉を鼻で笑って、愛おしそうに足先でぼくを撫でた。
【救済されるべき資格】