ミュージカル『刀剣乱舞』
歌合 乱舞狂乱 2019の感想です。
※ネタバレしかありません
※めちゃくちゃな長文(まさに狂乱)
※告白しておくと小狐丸、蜻蛉切、陸奥守吉行贔屓です
ミュージカル『刀剣乱舞』の歌合 乱舞狂乱 2019をDMMアーカイブ配信で観賞しましたので感想として残します。ウェブ上の知識等をところどころ取り入れています。
刀剣男子が神様やっているのが大好きで、今回の公演は大変ご馳走でした。
鶴丸が判事役で仕切っており役割が大きめでした。赤青に分かれて歌うけど、互いに敵対して優劣を決めるようなことはしません。もちろん他キャラにも見せ場あり。
2.5次元初心者なので、念のため書いておくと、本公演では他公演について言及したり舞台を追っているから楽しめる要素があります。
普段は、前後編や第二部などとうたっている作品以外で、他作品を見ないと楽しめない作品というのは、好まないのですが、本公演はそれをおいてもとても良かったです。
何が良いかというと、刀剣男子が神様をやっているから、ということに尽きます。
ほんと好き。
なお、演出の都合で芝居とライブが交互にあります。芝居パートではペンライト振れません。
【神遊び】導入
「この世に生まれ出るもの、いずれか歌を読まざりける」
(この世のものならなんだって歌を読むもんだろ)
「あなたと歌合わせ」
「さあ、歌え!」
古今和歌集などの古典を引用して、なぜ歌うのか、っていう理由付けをする。
本来ミュージカルにおける歌には理由付けなんか必要ない。なぜ歌うのか、ミュージカルだからだ。
でも、この問題提起は伏線になっています。
和歌を引用することにより、私達が歌を聞いて高揚するのは人間の本能的なところに由来するのだ、という気持ちになりますね。千年前から変わらない営みなのだ、という気持ちになる。
ちなみに他の方の指摘で、ここの陸奥守吉行と御手杵を見ていると振付が他の刀と違うところがあるようです。彼らは炎に焼かれた経験があるから。
炎というのは刀鍛冶に必須のもので、刀を生み出す源であり、鉄を溶かし刀を滅ぼす原因ともなるものでもある。
物事は一面的ではないというのは、本公演を通じて感じられるテーマにもなっています。
なお、先に書いたように冒頭の芝居パートが伏線になって、この後の芝居パート全体へ影響を与えます。
歌を歌うもの、人、鬼、神、およそこの世のものすべて。その中に刀剣も含まれている。
この後も、和歌を引用しながら刀剣男子のあり方、肉体や心を持つことで生じる葛藤などを表現していきます。それぞれの来歴やミュ本丸での出来事によって個性があってとてもよい。
ここでオチに触れちゃいますが、まだ生まれ来ない付喪神に、刀剣男子になるとはこういうことですよ、という心構えを与えているんですね。それを和歌を引用し歌って踊るっていうのが、御神楽みたいで素敵な発想だな〜ほんとに最高〜となりました。
【懐かしき音】芝居
碁石のぶつかる音を懐かしむ刀剣達。
その音は鉛玉の爆ぜる音にも聞こえ、あられの音にも、算盤、玉砂利の音にも聞こえると話す。
そして人がするのを真似てお参りをする。刀剣男子が神頼みするのも変な話しだけど、これも「君」に逢いたいからだと言う。
読まれる和歌は、
天地(あまつち)の神を祈りて我が恋ふる
君い必ず逢はざらめやも
(神々に祈ったのだから、君に逢えるでしょうね)
また、ここからそれぞれの刀剣男子が、詠んだ和歌を短冊に書いて燃やす。
火を焚くのは、和歌を神(君)へ届ける意味があると思われる。
【CONFEITO】芝居
刀剣男子に次々に根兵糖を要求された蜻蛉切が夢を見る話し。蜻蛉切がとってもかわいい。とってもとってもかわいい。
かわいい。
夢から醒めてから歌う歌もめちゃくちゃであり、夢から醒めた後も蜻蛉切の夢の中ではないかと思われます。CONFEITOはポルトガル語で金平糖のことだそうです。そのままですね。
読まれる和歌は、
世の中は夢かうつつかうつつとも
夢とも知らずありてなければ
(世の中は夢ともうつつともわからない、あってないようなもの)
世の中は夢ともうつつともわからない。うつつと思っている今この時間も夢の中かもしれない。
もしも、蜻蛉切が主に根兵糖を持たされて長期任務にあたっているときに見た夢だったら、ちょっと可哀想かもと妄想しました。大切なものだからちょっと疲れたくらいでは食べちゃいけない、と思っている、そういう蜻蛉切もいるかもしれない。
【mistake】ライブ
ぽんぽぽんぽんって言う歌。すごく好き。
陸奥守がアップになったときに鼻に皺寄せてるの犬が威嚇しているみたいでかわいかった。大倶利伽羅の威嚇もカッコ良かった。
あとは、歌のあとのいじりで御手杵が「高速槍」って言って会場がどよめいているのが面白いです。御手杵がゲーム詳しい?(笑)みたいなどよめきですね。刀剣男子の誰かが「高速槍?」って言い返してたから、その人はゲームやってないかもね。
【Impulse】ライブ
蜻蛉切と鶴丸は歌がうまい。
鶴丸は歌のレッスン受けたことないようなことをネットでお見かけしたので、レッスン受けたらもっと音域広がって素晴らしいのでは、と思いました。
ちなみに三百年再演の2部曲で、そちらでは村正と蜻蛉切で歌っていたものです。映像見ていると村正のペンラ色を振っている方もいたようで切なくなっちゃったな。
気持ちわかるけど村正いないの仕方ない。
いない者を当てにするな!今は残った者でやれることをやるだけだろ!
って矢口蘭堂も言っていました。
【Stay with me】ライブ
巴の歌がうまい、蜂須賀がかわいい。
バーレスク(ボーイレスク)って呼んでいる方いたけど納得です。
余談ですが、これも三百年再演の2部曲です。三百年再演のにっかり青江は最高に可愛いのでおすすめします。三百年再演の2部は全体的に穏やかで優しい雰囲気あります。
【菊花輪舞】芝居
にっかり講談。講談は雨月物語そのまま。
人魂は純粋な魂であり、念が深く執着や思いが強い魂は、よりこうでありたかった、こうでありたい、という形を明確に描くのだと言う。
もちろんこれは刀剣男子のことを言っている。
詠まれる和歌は、
夏虫の身をいたづらに成すことも
ひとつ思いひなりてよりけり
(夏虫が火に飛び込むのも、私が恋焦がれることも、思い(火)によるもの)
彼らは元は刀であり、そこに宿った付喪神である。刀剣男子として形を現し、その姿形を保つのは、刀剣男子自身の思いひとつである、と言うのだ。
またこの講談は「交わりは軽薄の人と結ぶことなかれ」で結ばれる。
「軽薄の人」が誰かということは専門家のあいだでも諸説あるようですが、どの解釈でもこの公演には馴染むと思っています。自分に従わない男を許さなかった経久、主人の命に従い従兄弟を監禁した丹治、死をもって一夜の約束を果たすことを選んだ宗右衛門、儒学者でありながら復讐の道を選んだ左門、それら誰にも成り得なかった読者たち。
誰もが、誰かにとっては「軽薄の人」である。
また、にっかり青江は「交わる」とはどういうことかわからない、と言う。刀は人を、あるいは刀同士を傷つけることはあっても交わることはないから。
しかし『菊花の約』は、肉体の交わりを言っていない。
思いの強さが、死んだ者の魂を千里の道をも越えさせた話しなのだから、心の交わりの話しなのだ。心のことなら、刀剣男子だって「交わる」ことはできる。
「交わりは軽薄の人と結ぶことなかれ」
2回も繰り返されたこの言葉は、心や情を持つものすべてへの戒めだ。
【明石国行のしゃべくり】芝居
ちょっとぞっとする話し。にっかり青江の講談より余程怖いです。
これはあくまで作り話、と締め括られる、梅の木の話し。
梅の木の枝を折る様は、歴史を修正する行為の隠喩ではないかという意見を読み、私もそうだなと感じました。
梅の木は「主が大切にしている」とはっきり説明される。
梅の木の枝を最初に折ったのが歴史修正主義者なら、刀剣男子がやっているのは、「バランス」をとる為に次の枝を折っているようなものだと言うこと。辻褄合わせに次々と枝を折れば、最後には梅の木そのものを失ってしまう。
葵咲本紀中でも明石はミュ本丸の方針に疑問を抱いていましたから、ここではそういう立場として描かれるのでしょう。
弟思いの明石推しの方は大丈夫でしょうか。
まあ解釈違いしてたら歌合見てないですかね。
詠まれる和歌は、
梅の花折りててかざせる諸人は
今日の間は楽しくあるべし
(梅の花を手折って飾っている人は、今日を楽しんでいるのだ)
明石はこの話しを落語として聞かせ観客を笑わせます。オチもついて話しは綺麗に収まる。
しかし明石は、審神者のやっていることがどんなに滑稽で非合理的でその場しのぎのエゴイズムか、それで笑わせているんです。梅の木の枝を折って、折って、折り合っていると。
今日が良ければそれでいい、そんな刹那主義的な行動を客観的に眺めている。
自分の脳みそを食べさせて、それを美味しいと言わせるような、レクター博士のあれと同じ。それが怖いです。
【Brand New Sky】ライブ
結びの響、始まりの音カンパニー仲良さそうでいいな。
【Nameless Fighter】ライブ
大倶利伽羅馴れ合わないな〜、でも最後ちょっとにっかり青江と馴れ合ったかも。
【約束の空】ライブ
明石と御手杵がちゃんとアイドルやってる。
閑話休題。
巴、陸奥、大和守、大倶利伽羅で芋を掘る話し。ここで大倶利伽羅が一生懸命畑仕事をしているのは、三百年の子守唄からきているんでしょうね。陸奥守がそれをちゃんと見ているのが微笑ましい。
馴れ合わない大倶利伽羅が可愛いです。
【前進か死か】人間
葵咲本紀で人間役の役者さんに色々あったようで挨拶してくれますが、余り事情知らないのでよくわかりません。前説の小芝居も葵咲本紀を知らないとわからない部分が多いと思います。
歌は好きです。殺陣ありの振付もカッコいいです。
【夕涼み 時つ風】芝居
和泉守、蜂須賀、にっかり青江の軽装姿に観客みんなにっこりしたであろう。
長髪さらさら系男子の風呂上がり、すごくいい。
兼さんが牛乳飲むとき応援されていたのは、幕末天狼傳で、舞台上でお酒を一気飲みするのお腹が弱いことを理由に蜂須賀に代わってもらったところから来ているらしいです。わかりませんけど。
あと兼さんが「謎が多い三条さん」って言うの好きでした。にっかり青江のことも「にっかりさん」って言っていたのは年下設定なのかな。
三条に謎が多いのは非現存、不存在の刀が多いからでもある。つはもので三日月宗近が「千年前のことなど誰にもわからない」と言ったように不確かなのだ。それに比べると兼さんは出自にもエピソードにも確かさがある。
まったく自覚なく現存刀が非実在刀、現不存在刀に対して「謎が多い」と言うのはけっこう残酷ですね。
あと堀川国広のギターはああして聴いてもまったく遜色なくてすごいです。
詠まれる和歌は、
ぬばたまのわが黒髪に降りなづむ
天の露霜取れば消につつ
(私の黒髪に積もった露霜は、手に取ればすぐに消えてゆく)
この和歌自体は黒髪に降る露霜を手に取る無邪気な様子を描いているのでしょうか。しかし刀剣男子にとっては意味合いが変わってくる。
確実に目の前にあるように見えたものも、手にした途端に消えてしまう、そういう儚さを歌っているように思います。
自分はなぜ存在しているのか、それを自分に問い続け、自分自身で答えを出し続けなければならない。自分の存在を疑えば、そこから自壊して消滅しかねない、そういう危うさが刀剣男子にはある。
因果な宿命だ。
【描いていた未来へ】ライブ
アイドル。
【狐や踊れ】芝居
間接的に、ミュ本丸では明石は遅めに顕現したらしいことがわかる。
あとこれは本当に蛇足ですが、「あぶらげ」と「あぶらあげ」はどちらも正しい発音のようです。私は普段「あぶらあげ」と呼んでいたので、「あぶらげ」は砕けた言い方に聞こえます。だから小狐丸が「あぶらげ」って言うの少しかわいいなと思いました。
他にも、小狐丸は基本みんな呼び捨てだな〜とか、明石の顔はめちゃくちゃ端正だな〜とか、小狐丸っていつも紳士的だけどプリプリ怒ってるのも可愛いな〜とか、思うことは他もいろいろあるのだけどキリがないのでやめます。
話しを戻します。
小狐丸が二振りいる、という騒ぎが起こる。しかしそう言うみんなが佩刀していないのを見て、小狐丸は自分は狐に化かされたと気付きます。
そこから「では踊りますか!」となって5振りで踊るのですが、勢いがあって楽しげです。
狐っぽい振付もかわいい。
みんなで「狐には表と裏がある」と歌う。小狐丸という太刀には表に刀工名、裏に鍛刀時を手伝った狐の名前が彫られていたという伝説があり、そこからきているのか。
詠まれた和歌は、
ふたつなき物と思ひしを水底の
山の端ならでいづる月かげ
(月はこの世に二つもないと思っていたが、水底に月が見える)
狐面の小狐丸を見て小狐丸ははっとする。向き合えば鏡の如く、溶け合えば鉄の如く、ひとつは私、ひとつも私。私は私、お前も私。心には実態がない。常に矛盾をはらみ、表と裏の面が争い葛藤し続けている。
表と裏、どちらがホンモノか。
それは、どちらも本物なのだ。
そのことを証明するように、小狐丸の影のように踊っていた狐面の小狐丸が最後に残したのは、面(おもて)であったのでした。
【響きあって】ライブ
長曽根さんと蜂須賀さんが一緒に踊っていた気がする。
【百万回のありがとう】ライブ
蜻蛉切が穏やかに微笑んでてうってなった。てかみんなすごく穏やかに笑ってて幸せになった。
陸奥好きになりつつある時に見たので、うちわ探してじっと読んでファンサしてる陸奥がすごく愛しかった。
【勝ちに行くぜベイベー】ライブ
アオーンって鳴くのが可愛かった。
【獣】ライブ
ライブパートが続くからこのまま終わっちゃうのでは?っていう思いが過ぎってました。あとにっかり青江ときどき歌ってないのでは?って思って見てました。
【かみおろし】芝居
まれびとまだか、と歌う。
まれびととは神のこと。
そうです。これまでの、そしてこれからの儀式は神(新たな刀剣男子)を呼び降ろすためのものだったのです。冒頭と同じ白い装束で刀剣男子が舞台に揃って登場します。
詠まれるのは古今和歌集の序文、
やまとうたは人の心を種としてよろづの言の葉とぞなれりける
(和歌は人の心を種として生まれる)
そして鶴丸のセリフ「人の想いで紡がれた物語を縁(よすが)とし、この世に生まれ出るのは歌も我らも同じこと」と続く。
これまで「歌おう歌おう」とやってきて、鶴丸がいきなり結論を持ち出す。歌が人の心から生まれるものであるように、刀剣男子も人の心によって生まれると言う。だから和歌を詠んでいたのだ。
神を降ろすのに必要な要素(心から言葉が生まれ、言葉から和歌が生まれること)を、和歌を詠むことで擬似的に繰り返していたのだ。
ここから駆けるように芝居パートが進みます。
小狐丸は、自分の思いの強さが乗り移って狐面が小狐丸の姿を持つまでになったと言った。
にっかり青江は、付喪神が人の形を成し、刀剣男子として顕現するのは「思いひとつ」と言った。
この儀式では、これまで付喪神であった神に、人の形と成れるように、すでに顕現している刀剣男子達が教えて、誘い出そうとしている。
心を言葉に、言葉を歌にすることは、付喪神から刀剣男子となることと同じ工程なのだ。
ちなみに「8」は日本の神様に縁のある数字のようです。八幡大菩薩とか、八百万の神とか言いますしね。
これまで詠まれた6つの和歌は火を焚いて既に神へ捧げられている。そして鶴丸が灯した2つの炎を合わせて、8つです。鶴丸は「これより先は神の領域」と宣言する。
神社に鳥居があるように、線引きすることで、そこを超えたときにより神の領域に近付く感じがします。
【君待ちの唄】芝居
すごく好き。
神様やってるのほんと好き。
心の臓、赤き血、眼、手足、耳、口、肺、と人の形を成すのに必要なものを歌い上げていく。最後、空気を吸い込めば、君は産声を上げるだろう、って産声のところ蜻蛉切が歌うの、ほんと生命力に溢れてる。好き。
心臓から肺までで、7つ。
もちろん8つ目は心だろう。
命宿れ、形宿れ。宿れ宿れや、祈れ祈れや。
忘れつつありましたけど、これまで赤青に分かれて歌合をやっていたのです。
祭りで神輿を運んだり、競ってどこかへ向かうのは、それに誘われて神様がやってくるからです。あるいは人間が神の領域へ踏み込むため。
それに相応しく盛り上げてくれるんで、ほんと好き。
カタカナの呪文はアナグラムになっているそうです。並び替えるとカクヅチという火の神を殺したことで生まれた8つの神の名前が出てくる。
刀剣男子は、時間遡行軍の刀を折り続ける。
それが使命だ。
神を呼ぶのに、神を殺して生まれた神々の名前を唱えなければいけないなんて、なんて業が深いのか。この神々はしかし、神殺しの象徴であるのと同時に神を生み出したことの象徴でもあるから、刀剣男子の鍛刀にはぴったりです。
【八つの炎、八つの苦悩】芝居
付喪神らしき姿が現れ、苦悶の歌声を上げる。
「我に与えられたのは肉体と8つの苦悩」
苦しそうに歌うから、悲しくなります。これが彼らの産声なのか。刀であれば、付喪神であれば無縁であったはずの苦しみを、今から与えようというのだ。
生まれてきたくなかった、生まれてこなければよかった、と思われたらどうしよう。刀であれば、付喪神であれば与えられることのない苦悩。心があるというのは、そういうことなのか。
付喪神は「なぜ我を生み出した」とまで問うてくる。
刀剣男子は声を合わせて答えます。
「共に戦うため」
「使命果たすため」
「どうか力を貸し給え」
それがすごく力強いんですね。
泣いたね。泣いてないけど。
篭手切がめちゃくちゃ必死な表情なのね。2回目見ると篭手切〜ってなる。
「生まれた理由は問い続けよう」
「この身が語る物語を紡ごう」
新たな刀剣男子がこう歌って、刀剣男子となることを決意してくれるんですね。自分が自分であるために、苦悩があるとわかっているのに、きてくれてありがとう〜ってなりました。てかごめんね〜ってなりました。
【あなめでたや】芝居
めっちゃめでたい曲。
ただし、明石が全然笑ってないのが怖いんですよね。大倶利伽羅が馴れ合ってないのは全然いいんだけど、明石が笑ってないの怖い。
【最後に】
長々と書いてきました。不満に思うところもありましたが、全体として好きな公演でした。じゃなきゃこんな長文の感想書いてないか。
この歌合、これは人間賛歌。
すべての生命への祝福。
刀剣乱舞のゲームをやっていたり、刀ミュを見る人の中には、早く人間辞めたいって思っている人も多いと思います。でも、本公演を見たら、この舞台を作ってる人達はきっと真逆のことを意図していると思えてならないのです。
人間賛歌。
肉体と心があれば、8つの苦悩が宿る。
でも苦しむために生まれてくるものはない。
刀剣男子は、「なぜ我を生み出した」という問いに迷いなく「使命果たす為」と答える。
なんて頼もしいんだろう。
先に顕現した刀剣男子は、一度生まれてしまえば「八つの苦悩」が待っているとわかっている。
肉体を得て、心を持つとはどういうことか。
刀剣男子として生まれてくれば、苦悩しなければならない宿命を背負うことになる。それでも全員で声をそろえて「力を貸し給え」って言ったのは、苦悩よりも、もっと大きい幸福や果たすべき使命があると知っているし、そうあるべきだと確信しているからだ。
本公演は、「この世に生まれ出るもの、いずれか歌を詠まざりける」から始まる。
和歌を詠み、歌う刀剣男子。
それは彼らに心が宿っているからできることだと言う。
心とは、友に逢いたいと祈る優しさ、使命を果たさんとする決意、幽鬼が抱く深い情念、主に軽蔑されたくないという怖れ、狐面にまで乗り移った欲望、仲間の無事を願う友愛。良いものも悪いものも心にはあるけど、表と面(おもて)、どちらも真実なのだ。
良いときも悪いときもある。
軽薄な人もいるだろうし、裏表のある人もいるだろうし、欲望をコントロールできないときもあれば、喪失への恐怖や寂しく思ったり孤独を感じることもあるし、中には主へ疑念を抱くものもいるだろう。
刀剣男子になれば、自分の望まないような一面を知ってしまうかもしれない。
あらゆる和歌は「人の心を種として」生まれる。つまり付喪神も幽鬼も妖も、歌うのは人に心があるからだと締め括る。
「歌え」と何度となく呼び掛けて、祈り、願い、刀剣男子は互いに応えてきた。歌合も、刀剣男子同士の、あるいはまだ来ぬ付喪神への言葉掛けであった。
でも、それを彼らは客席に向かって歌うのだ。
人間なんかいなくても花は咲くし鳥はさえずるし風はそよぐ。でもそれを美しいと思って歌を詠み、千年後まで歌い継ぐのは人間だった。
ものに心が宿り、歌を歌う。
それは、人に心があったから始まったこと。
人間がいなければ、ものが歌を歌うことはなかったし、付喪神も刀剣男子も存在しなかった。人の心を種として、刀剣男子が産声を上げたのです。
刀剣男子が生まれる過程は、人間の生まれる過程そのものだ。
彼らの引用してきた和歌は、当たり前だけれど、人間の作ったものです。刀剣男子の心は、人間の心そのものです。
「あなめでたや」は、生まれてきたものすべてへの祝福なのだ。
八つの苦悩を与えた人間を恨まずに、神が人間賛歌している。
泣いたね。泣いてないけど。
感想は以上です。
さて、もう一周見てきますかね。