蛍悟兄さんを追い返すのは一苦労だ。金曜日の夜にふらっと現れてから日曜日に帰らせられれば及第点で、土曜日の内に帰らせられれば奇跡。
そうして現れた兄貴が何をするのかと言うと、何をするということもない。強いて挙げれば、家事をする。
掃除したり買い物したり色々と世話を焼く癖に会社帰りのスーツ姿で俺のところに来るから服を貸したり寝床を分けたり手間が掛かるのが難点。
長男なのに、分かりにくい。
俺は昔から人の考えていることを直ぐに理解できる方だったけれど、蛍悟兄さんだけは例外だ。理解不能。予測不可能。するだけ不毛の解釈不要。
「おかえり、蛍佑。遅かったね」
現在は金曜日の午後9時17分。
「また来たのかよ」
俺が探して俺が住民票を置いて住んでいる俺の部屋に、なぜエプロン姿の蛍悟兄さんが居るのかと言うと、蛍悟兄さんは管理人と顔見知りになるくらいここを訪れているからだ。
「寒かった? 紅茶とコーヒーどっちがいい?」
「そのエプロンどうしたんだよ」
見覚えがない。
鮮やかなオレンジの布地に、よく見れば小さなハートがいくつかプリントされている。新婚の家庭には喜ばれそうなお洒落なそのエプロンは、しかし俺の部屋には全く需要がない。
「ちょうどよかったから」
蛍悟兄さんははにかんでエプロンの裾を摘んだ。
……。
靴を乱雑に脱いで寝室に入るとホテルにチェックインしたのかと紛う綺麗さだった。
「キモい」
キモいキモいキモいキモい。
鞄と脱いだコートをベッドに投げ付けてみてもまだ足りない。綺麗過ぎる。上げた足に布団を引っ掛けて床に引き擦り落としてみた。鞄も巻き込まれて音を立てて床に落ちた。
「蛍佑、どうした!?」
蛍悟兄さんはエプロンを外していた。
「気持ちわりー」
「飲んで来たの? 大丈夫? いま水持って来るからちょっと待ってて」
「要らねー」
「具合悪いの?」
「あのね、兄貴が、気持ち悪いの」
「……え」
「来てくれんのは嬉しいよ。でも勝手に上がってあちこち触るのは止めて。お願いだから」
俺は切実に頼み込んだ。
大切なお願い、というやつだ。
「ごめん」
蛍悟兄さんは動揺して後退した。ドアにぶつかって踵を痛そうに庇った。
あーあ。
いつもこうなんだよな。
「兄貴」
「ほんと、ごめん」
「兄貴、俺の言ったことちゃんと聞いてた?」
「うん。ごめん」
困るんだよ、兄貴のその顔に俺はとても弱いんだからさ。
「来てくれんのは嬉しいよ。あの家には簡単に戻れないからさ、兄貴たちから来てくれんのは、すげー救われる」
蛍悟兄さんにあんなところを目撃されて、もう前と同じように接してはくれないだろうと覚悟した。不用意だったからバレたけど、隠して来た中身は結局同じものなのだから、あの反応は純然たる彼らの本心。
だからあの時のそれでおしまい。
いつかはこうなるものだったと割り切るしかない。それが事故だろうと告白だろうと核心のところは同じだ。
俺はあの甘ったるい世界から出る決意をした。あの時俺の身体から自由を奪っていた手錠は、俺には家族そのものだった。
あそこは息苦しい。
俺は望んで家を出たのだし、家族も俺を受け入れる積もりはないだろう。それが互いにとっての最善策。
けど違った。
兄貴たちは優しい。
「お前、そろそろ、」
蛍悟兄さんが俺に何か言おうとした時、インターホンが鳴った。モニタを確認すると蛍路兄さんが写っていた。
俺が「どうぞ」と言ってエントランスのドアを開けると、蛍路兄さんはカメラ目線で破顔した。
「兄貴来た」
「うん、見えたよ」
蛍悟兄さんは眉根を寄せて難しそうな顔をしている。
「げっ。兄貴いたの?」
「何、その反応」
蛍路兄さんは蛍悟兄さんに大袈裟に悪態をついた。
「止めてよー。俺と蛍佑の愛の時間に入り込まないでー」
「何言ってるの?」
「兄貴のってー、長男だからっていう事務的な愛情じゃーん。俺のとは違うじゃーん」
「はい?」
蛍悟兄さんは本気で苛立っている。
「喧嘩は外で」
俺がそう言って二人の背中を押すと、二人とも急に態度を柔らかくした。
「うそうそ。挨拶代わりの軽いジョークだよ」
「ごめん」
めんどくせー。
「これお土産ねー。蛍佑にー」
「ありがとう」
紙袋の中にはチョコレートが入っていた。たかだかチョコレートに不釣り合いな品のある箱には丁寧にリボンまで掛けられている。
「兄貴、そういうことだから。帰って」
蛍路兄さんは微笑んだ。
家族さえめろめろにするその微笑みは、しかし蛍悟兄さんにだけは通用しない。蛍悟兄さんは何かを堪えるようにして笑い返した。
「二人ともいい加減にしろよ…」
そこでインターホンが鳴った。モニタには蛍が映っている。
「げっ。蛍じゃん」
蛍路兄さんが呟いた。
「弟にまでそんなこと言ってんの?」
蛍悟兄さんが呟いた。
ほんとに、いい加減にしてくれよ。
「ちょっと見てくる」
俺はそう言って軽く出掛ける準備をした。コートを羽織って財布と携帯をポケットに突っ込む。
「どこか行くの?」
「うん。蛍と約束してて」
「俺も行くー」
「駄目だよ。蛍が先約なんだから」
「それは……」
蛍路兄さんは黙った。それは了承の沈黙ではなく、反抗の沈黙だった。
「二人とも、いつもありがとう。いつ戻るか分からないから、帰るならこのスペアキー使って、ポストに入れといて」
外に出ると、裏口からそっと抜け出した。
兄貴たちに加えて弟の相手までしてらんねー。
曰く、“足を抜く”。