※妄想小説
※伝説の最期編の数日後設定
※剣心薫で、すれ違い
夕飯の支度をあらかた終えると、道場の縁側で左之と弥彦が何やら話しているのに気付いた。こそこそと内緒話しをしているようである。
「なんの話しでござる?」
「おお! 剣心か!!」
「おろ?」
左之は楽しそうに歯を見せて笑って、「お嬢ちゃんの話しだぜ」と言った。
「薫殿の?」
「そうそう。いやな、ここんトコお嬢ちゃんがすっげェ機嫌がいいんだが、気付いてたか?」
「いつもと同じに見えたが…」
左之は弥彦に意味深な視線を送った。
弥彦の方はちょっと嫌そうな顔をしている。
「やめろよ。ぺらぺら言い触らすことじゃねーだろ」
「なにガキが大人ぶってんだよ!」
左之が弥彦の頬を抓ったので「左之!」と言って止めたが、左之は少しも懲りていない表情でまだ不敵に笑んでいる。
「なんで機嫌がいいんだろうなって、弥彦に聞いたらよ」
左之は弥彦を見て「なァ」と続きを促した。
弥彦は諦めたのか渋々口を開いた。
「だから、アレは、男だろ」
弥彦の簡潔な言葉に左之はとても楽しそうに大笑いした。薫殿がいたら道場を追い出されていそうな程の大笑いだ。近所に響き渡っていそうで拙者も少し恥ずかしい。
「薫が男?」
拙者が尋ねると、左之は右手の拳を突き出してから、小指を綺麗にぴんと立てた。
「何トボけてんだよ。薫が、じゃなくて、薫『の』、男だろォが!」
左之は続けて「あいつ、ガキだと思ってたらいつの間になァ」などと呟いて、それでも楽しそうだった。
薫殿に男がいてなぜ楽しい?
「心当たりがあったのか?」
こういうことについて左之は面白がるばかりで頼りにならない気がしたので、弥彦を向いて尋ねることにした。弥彦も承知しているのか左之には構わないようにしているらしい。
「なんとなくだよ」と、弥彦は言い難そうに答えてくれた。
『なんとなく』?
弥彦は目を逸らした。その顔が赤くなっているのに気付いて、弥彦の『なんとなく』にそれなりの根拠があることを知った。
何か見たのか?
俺には何もわからない。思い当たることがない。
不意に斎藤の言葉を思い出した。
『あの娘は大勢の若い男を相手にする仕事をしている』
『油断すると痛い目見るぞ』
記憶の中の斎藤は、煙草の煙をふかしながら、声もなくニヒルに笑った。そこには時尾殿がそっと寄り添っていた。
羨ましい、なんて。
おかしいな。
本当に、俺はどこかおかしいらしい。
薫には気持ちを伝えるようにしていたし、彼女も俺に応えてくれたと思ったけれど、それらはひょっとしたら自分の勝手な思い込みだったのではないか。俺みたいな血生臭い人斬りより、新時代を生きて活人剣を志す若者に惹かれるのは、至極当然のことではなかったか。
ずっと見えていたものが見えなくなった日。
顔を洗うと頬を撫でた、あのおとなしい手が消えた日。
巴を忘れた日。
俺は、あの日から、誰かから愛されたことが一度でもあったか?
否、俺は、巴にさえ……。
「ふふふ。なんとなく、でござるか?」
笑うしかなかった。生きたいから、望みを全て捨ててでも、もし自分の命が何かの役に立つならば、俺は生きたいから、だから笑った。いつもどおりを装おって、のんきな顔して笑った。
【明日には(前編)】
「なにしてるの?」
その声は薫殿のものだった。出稽古を終えたところらしく道着姿のままだ。
「薫。おかえり」
弥彦の言葉に、薫殿は「ただいま」と優しく答えた。
弥彦は渡りに船とばかりにさっと立ち上がってその場から離れた。どうやら剣術の稽古中に左之に無理矢理相手をさせられていたらしい。
「夕飯、もう準備はできているでござるよ」
「ホント? お腹空いてたから嬉しい」
「左之も食べるか?」
左之は「いらね」と短く答えた。
「珍しいわね。何かあるの?」
薫殿が尋ねると、左之は嬉しそうに笑った。
「珍しくもねェだろうが。もう食べてきてんだよ。喧嘩を売られてるんでな」
「あ、そういうこと」
左之は立ち上がってから「うーん」と唸って背伸びをした。それから軽く屈伸運動をすると「じゃあな!」と背中を向けたまま大きな声で言って外に出て行ってしまった。
騒がしかったのが嘘のように静かになった。
薫殿に、何か、言いたい。
そんな気がしたけど、言うべきことは何もなかった。
薫殿は「あー、お腹空いた」と言いながら立ち上がって、敷地の奥の方に入って行った。おそらく玄関から家に上がって着替えてくるのだろう。
「あ。食事の支度、しないと」
なぜか零れた独り言は、誰に向けたものでもなかった。
台所で食事の支度をしていると後ろに薫殿が立ったのが気配でわかった。衣擦れの音と、なんとも言えない落ち着かない気配だった。手伝ってくれるのかな、と思っていても声を掛けてくれる様子がないので、なるべく自然に振り返ってみた。
「…あ、なんか、手伝える?」
薫殿はやはり落ち着かない様子でそう言った。
「大丈夫でござるよ」
いま薫殿が隣に立ったら、きっと、抑えが、効かない。
拙者が笑うと薫殿は残念そうに「そう?」と言って、静かに隣の部屋に移って食卓に座ったようだった。
支度と言っても温めた味噌汁をお椀に取り分けるだけだったので、それを御盆に乗せて食卓に運ぶと、薫殿が『機嫌よさそう』に微笑んだ。拙者もつられて微笑んだ。
ああコレか。
コレじゃないか。
つくづく弥彦は勘がいい。
気付こうとしなかっただけで拙者も知っていたことだ。確かに薫殿はここのところ『機嫌がいい』。思い返せば、京都へ行く前からこうだったような気がする。
『機嫌がいい』のは、『男』がいるから。
相手は誰だ?
今日の出稽古先はどこだ?
様々な名前を思い浮かべては自分でそれを否定して、いつもの味噌汁を薫殿が「美味しい」と言うだけで、拙者にとっては刀で斬り付けられるより堪える。
なんだ、本当に、嫌になるくらい『機嫌がいい』。
「風呂を用意してくるよ」
「え? 剣心は、ご飯いいの?」
「後で食べるでござるよ」
「なんで。あ、ごめん、あたし、汗臭い?」
薫殿は腕の辺りを顔に寄せて、顔を赤くしてにおいを嗅いだ。
「一応、着替える時に手拭いでからだ拭いてきたんだけど、ごめんね!」
顔は更に真っ赤になった。
男が、女の汗に興奮することがあるのを、彼女は知らない。彼女の恥じらう姿が無性に愛しくて堪らなくなる拙者の気持ちを、彼女は知らない。
伝えたことがないからだ。
「ちょっと拭いてくる…」
薫殿が席を立とうとしたので拙者は思わずその腕を捕まえて引き止めた。
「大丈夫でござるよ」
「いい、拭いてくる」
「すまない。そういうつもりじゃなかった」
「自分でも気になってきちゃったから…」
薫殿は拙者の手を振り切って立ち上がった。
逃げられているみたいだ。
いや、『みたい』じゃない。逃げようとしているのだ。この手から。薫殿に拒否されるのはとても悲しい。人生全てを否定された気になる。
追い掛けて拙者も立ち上がった。
「薫」
「え?」
ああ駄目だ。駄目になる。
薫殿に手を伸ばそうとした時、物音がした。弥彦がいて拙者達を見て「飯できた?」と尋ねた。
「できているでござるよ」
薫殿はそのまま部屋を出て行った。
「わりぃ」
弥彦はそう小さく言って食卓に座った。弥彦が何に対して謝罪したのかはわからなくても、自分が変な空気を作っていたことの自覚はあったから申し訳ない気持ちになった。
「なあ、剣心。薫から聞いたか?」
勢いよくご飯を口の中へかき込みながら弥彦が言った。
何を?
『男』のことを?
「いや、なにも」と、拙者は答えた。
弥彦がそれから何も言おうとしないのでなんのことか聞こうとしたら、ちょうど薫殿が戻ってきた。弥彦はもう食べ終わったところらしかったけど、薫殿を見て席を立とうとはしなかった。
「あら、弥彦もう食べちゃったの?」
「ああ」
「せっかく作ってくれてるんだから味わって食べなさいよ」
「うるせー!」
「何よー、その口の利き方!」
薫殿が弥彦に掴みかかる勢いで詰め寄ったので、さすがに見ていられなかった。
「まあまあ、薫殿。ご飯が冷めるでござるよ」
薫殿は拙者を見て「剣心の為に言ってるのよ!」と言った。
「わかってる。気持ちは嬉しい」
拙者が笑うと薫殿も笑った。
「なあ、薫」
弥彦が声を掛けた。食卓に肘をついている姿は、剣士というより左之に似ていると思った。言うと嫌がられるから言わないが。
「なに?」
「その髪飾り、新しいよな」
「え、ああ、そうね」
髪飾り?
確かに薫殿はいつもの一つ結びにした髪を綺麗な飾り紐のようなもので結んでいた。先程から付いていたか、席を外してわざわざ付けたのか、思い返してもわからない。
「誰かからもらったのか?」
弥彦が尋ねると、薫殿は顔を赤くして言い淀んだ。
「なんだよ。隠すことじゃねーだろ」
「うるさいわねー」
「自分で買ったのか?」
薫はさらに顔を赤くした。
「そうよ」と言ったその顔が恥ずかし気に俯いて、俺は言葉にできない濁った感情に支配された。
我慢ならない。
耐え難い。
いや、俺にはそんなことを思う資格もない。
自分で買ってあんな表情をするだろうか。きっと誰かから贈られたものだ。俺よりずっと自由に外出したり仕事したりしているから俺の知らない付き合いもあるだろう。
贈り物。
誰からの?
「今度、燕にも買ってやろうかなー。店の場所教えろよな」
弥彦が言うと薫は「今度ね」と答えた。
誰から?
『男』だ。
それは誰だ?
それを知る権利が俺にはあるか?
薫がちらりと俺を見た。
俺はいつもみたいににこにこ笑っている自分が酷く滑稽で情けなくなった。
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