分別のない若者みたいに刺激を求めたりはしない。
ルーセンは逞しい身体だけれど、それが年相応に肉を弛ませていてもきっととても愛おしい。恋人となった今は尚更にそう思う。
「何かを始めるには、それに相応しい時機というものがあると思うんです」
ルーセンはコーヒーを淹れながら言った。俺は彼が言いたいことが分かった気がして「うん」と頷く。コーヒーが素晴らしい香りで誘惑するので俺は彼に淹れてもらうコーヒーを知るまではコーヒーが得意ではなかったことを思い出した。
酸味が嫌いだった。
苦味が嫌いだった。
今はそう嫌いでもない。
【平凡な男が抱えた愛】
初めてルーセンとセックスすることになった日、それは思えば最悪の日だった。恋人が俺を捨てて年下と付き合い始めて、弟達がこの街を出て行った。
俺は孤独だった。
俺は相変わらず孤独だった。
無い記憶の霧を無理矢理に掻き分ければゲロまみれの俺がいる。ビールと埃と俺のゲロが彼にどんな感情を与えたのかは考えたくもない。
ルーセンはいつも暗い顔で酒を飲んでいた。あの日もそうだっただろう。ロージーの前でも笑いもしない。暗い顔で酒を飲む男には、誰も声を掛けようとしなかった。
彼の笑顔は悪魔的だ。それは神の赦さなかった禁断の実。麻薬みたいな甘美。覚醒剤みたいな中毒性。
これは丸で官能小説だ。
彼が『へえ』と言って笑うだけで俺には感動的なことだった。彼の紳士的で穏やかな笑みは彼の瞳に潜む闇に照らされて艶を得る。俺はルーセンに出会うまではそんな贅沢なものは知らなかった。
知らない方が良いこともある。
二人きりの時に彼がよく笑えば笑う程に俺の理性を愚図にする。それに優しい声で呼ばれたら俺の腰は砕けて立ち上がることもできず彼の奴隷に成ってしまう。
俺は人間である意味を失った。
犬みたいに尻尾を振って犬みたいに腹を見せて犬みたいに従順に鳴く。
或いは犬である必要さえない。
ルーセンが俺を殺してくれたら俺は彼の細胞の一つとして生まれ変わりたい。そうすれば彼の瞳を支配する暗闇を理解できるかもしれない。
ゲロで誘惑できたとは思えない。
彼が相当に特殊な性癖をもって俺と一夜を過ごしたことは否定できないけれど今のところ俺達は一般的な愛で繋がっている。
一般的で、熱烈な執着。
あの日コーヒーの香りで目が覚めてベッドから出て初めて味わったものは美味しいコーヒーとルーセンの笑顔。
いつか捨てられるならばそれができるだけ遅くなってほしい。
いつか失う幸福ならばそれはできるだけ短い方が良い。
『それに相応しい時機』。
俺とルーセンが出会ったことのように確かに彼の言う『時機』というものはあるのだろう。俺は自棄酒で泥酔していなければあの暗い顔をした無口な男とこういう関係になろうとは決して思わなかった。
感じるんだよ。
俺ははっきり分かった。
ルーセンは俺の知らない世界の人だし俺はルーセンの視界にも入るべき人間ではない。
でも俺はルーセンが好きで好きで堪らないんだ。その笑顔で俺は死んでしまう。その声で俺は昇天してしまう。
伝わるかな。
伝わると良いな。
この凡庸な愛が非凡なる君に届きますように。
以前にハルメンへ行った時、そこは深い雪の為なのか低い気温の為なのか、人は誰も殆ど外に出ずにいた。とても静かで侘しい街だと思った。
「寒くないだろ」
アキが言った。アキは上着を手に持って、陽射しを喜ぶように窓越しの太陽を見上げている。
だから彼の問い掛けは、俺への批難も込められている。俺は肌寒さを感じて上着を着込んでいる。指先が冷えるのでポケットに手を突っ込んでアキを見た。
ことこと軽快に音を鳴らしながら馬車は進んで行く。
「まあな」
俺は自嘲して返事した。アキはそれに少し嫌な顔をしたものの、黙って視線をずらして、哀しいものを労るように街を見た。
「冬は人がよく死ぬんだよ。ヘイトでも黒いレンガを使うのはここら辺だけらしいけど、棺桶みたいだって他の町の連中が言ってた」
雪の中を足元を見ながら少しずつ歩む様は、そう言われると葬列のようでもあった。
『棺桶』。
確かに、黒いレンガは珍しい。雪で閉ざされたこの街ならば、遠目からは柩が並んでいるようにも見えるのかもしれない。
「特殊な加工でもしてあるの?」
俺が尋ねるとアキは首を傾げた。
「知らない」
アキは過ぎ行く家々を眺めている。俺は、彼はハルメンがとても好きらしいと思っていたけれど、そうではないらしい。
アキに誘われて気軽にパーティーに参加することにしたけれど、それが失敗だったことを知る。アキは、この街を憎んでいる。
だから育った家を飛び出して俺のところへ来たのだ。
この街に何があるというのか。
この街で何をしようと言うのか。
「向こうが俺の家」
アキが指差した先には高い塀で仕切られている。そして視界の奥の方で、タクシーがなければとても辿り着けない場所に城とも呼べる屋敷が聳え立っていた。黒いレンガで建てられたそれは暗黒組織の居城といった風情があった。
安心したことと言えば門が無事に解錠されたことくらいだ。
「アキ様。これは、お久しぶりでございます」
「うん、元気?」
「はい、ご覧のとおりにございます。皆様はまだお着きでない方もいらっしゃいますので。どうぞ、中へ」
扉の先に広がる内装は、外観から想像される以上に豪華だ。
俺は少ない荷物を荷台から下ろした。屋敷から出てきた男がそれを見て、「私が部屋へお運びしても宜しいですか」と言った。
「ありがとう」
慣れた様子のアキが礼を述べて、圧倒された俺は粗相のないように黙って彼らを追うことしかできなかった。
厭なところに来てしまった。
俺は今直ぐに引き返したい衝動に駆られていた。暖かい部屋で馴染みのソファに寝そべりながら即席のジャンクフードを食べる、そんな夢想を抱いていた。
「恭博さん、はぐれちゃダメだよ?」
アキが表情もなくそう言った。
地獄門の番人は、門扉の前で罪人の手を引いて、引き摺り込んで、冷酷に、残虐に、最期の優しさを見せるのだ。その手はきっと地獄のフルコースを振る舞うだろう。
厭なところに来てしまった。
俺は確信していた。
厭なところに来てしまった。
ここから引き返すことは許されない。
俺は仄暗い柩の森で、道を失ったのだった。
【仄暗い柩の森】