「浮気なんてしてねえよ」
お決まりのその言葉の白々しさが、実際に耳にすると映画やドラマ以上に信用ならないという現実に、波多野は感動さえ覚えた。
御田は波多野の恋人だ。付き合って半年が過ぎようとしているが、既に御田の浮気の為に4回は破局し掛けている。疑惑だけ数えれば桁が変わってしまう。
波多野は御田に渡されたスマートフォンに目を落として溜め息を吐いた。
そうは言っても……。
「浮気、してないんだよね?」
嫌に堂々としている御田は、自身の潔白を信じているからこその態度ではない。許されることを知っているのだ。と、波多野は思っている。
「してねえよ」
御田は余裕そうに椅子に座り、自分の髪を指先で遊んでいる。
「嘘吐き……」
波多野は小さく呟いた。
波多野自身は、後ろ暗いことは無くとも携帯電話を覗かれるのはいい気がしないと考えている。恋人のプライベートを詮索したくはないからだ。
特に経験則から御田の携帯電話は見たくないと思っている。
御田の方はプライベートなことは記録に残さない質なので、言わなければバレないと考えている。
「だから、確かめろよ」
「それってさあ、前から思ってたんだけど、御田も私の携帯見たいってこと?」
「はあ?」
「悪いけど、私そういう積もりないよ」
御田は波多野の言葉を聞いて脚を組み替えた。
長い脚は御田の自慢だが、波多野が御田の顔や長い脚等の容姿を気に入って付き合った訳ではないことに御田は気付いている。そのことを思い返して御田は再び脚を組み替えた。
部屋には衣擦れの音が響く。
「あんたが浮気だって言うから見せてるだけだろ。早く確かめれば?」
波多野は「そうだね」とだけ返事してスマートフォンを操作した。
先ずメールのアプリケーションを呼び出して送受信フォルダを確認することにした。メール全体の母数が半端になっている。何件か消去したのだろうが、それはなんの為か。
次にSDカードの中身を確認した。メールが保存してあったが鍵が掛かっていて見ることはできなかった。
最後に画像を見ると、楽しそうな画像がいくつかあった。女の子が勝手に撮って御田はそのことを知らないのだろうか。
結論、やはり怪しい。
だから見たくないのに、と波多野は思った。
「ありがとう」
スマートフォンを返された時、御田は勝ち誇った顔をした。機械類が苦手な御田にとっては怪しいところなど一つも無いからだ。波多野にとっても“そう”だと信じているから疑いは晴れたと思っている。
「もういいだろ。どっか外行こうぜ」
御田は背を伸ばして言った。
「天気いいな」と窓の外を眺める御田から波多野は目を逸らした。
波多野は御田の容姿が好きだから付き合った訳ではないし、彼の内面に惹かれた訳でもない。御田にアプローチされた時に独り身だったから軽い気持ちでOKしたのだ。
なのに、なんで……。
「御田、あのさあ」
「何」
波多野の声に御田は振り返った。手には部屋の鍵が握られている。
「別れようか」
波多野の言葉に御田は顔を顰めた。
「浮気してねえって言ってんだろ」
「それはもういいや。そうじゃなくて、なんか、御田もこういうの嫌なんでしょ」
「そりゃ誰だって疑われんのは嫌だろ」
「たぶん私はずっとこうだよ」
御田は手に持っていた鍵を机に置いて、波多野を見据えた。まだ若い御田の目は波多野の心の底まで貫くような鋭い光を宿している。
「波多野さんって、俺のこと好きじゃないよな」
「え?」
「俺って結構モテる方なんだけど、タイプじゃない訳?」
波多野は思わぬ反撃に苦笑いして目を逸らした。
「格好良いと思うよ。背も高いし……」
御田は波多野の腕を掴んだ。
「それだけ?」
波多野は、御田の強い眼差しが若さに起因するものなのか、或は支配欲に起因するものなのか計り兼ねた。
「優しい時もあるし」
「それだけ?」
「他にもあるよ」
「俺は全部好きだよ。だからあんたを手放す気はない」
そうですか。
それはどうもありがとう。
好きだとか離さないとか言う御田の言葉は、恋人と結婚について真剣に話し合ったことのある波多野にとっては、何時も何処か軽々しく感じられる。今自分に向けられている視線にしても、実現性のない無い物ねだりに思えた。
「じゃあなんで浮気するんだろう」
脳裏に浮かんでいたことが口を突いて出た。波多野はしまったと思ったけれど、直後にそういう本音を隠すべき仲でもなくなったのだと気付かされた。
好きでもない男と痴話喧嘩。
未来明るい青年と私。
波多野は喉の奥で笑った。咳込むような笑い声は波多野を余計に惨めにさせた。そしてそれは御田をも惨めにさせるものだと、波多野には分からなかった。
「浮気してねえって言ってんだろ」
御田は掴んでいた波多野の腕を振り払った。
「はいはい。ごめんね」
「うぜえ」
うざい、だって。
波多野は今度は声に出して笑った。口元は恐怖に引き攣ったように歪んだだけで、何も楽しい訳ではないことは明白だった。
「御田は若いね」
御田は波多野を睨んだ。
「あんたは老けた振りしてるだけだろ。俺に同情して欲しいわけ?」
「同情ね。して欲しいね」
「ほんとうぜえ」
御田も笑った。歪んだ笑みだった。
「私のこと好きでもない癖に」
「俺は何度も好きだって言ってんだろ」
「若いっていいね。気持ちが無くても好きだとか簡単に言えて」
「はあ?」
「そうじゃなかったら、好きの価値観が違うんだね」
御田は眉根を寄せた。刻まれたその眉間の皺は、美術の教科書か資料集に載っていそうな、業と闘う仏像を思わせる険しさだった。
波多野はそんな御田を見て、また笑った。
波多野の場違いで軽薄な笑みを見た御田もいよいよ不愉快さが増す。
「俺がガキだから、言葉に重みがねえのかよ」
「じゃあもう一度浮気なんかしてないって言ってよ」
「浮気なんかしてねえ」
「スマートフォンの画像フォルダ見た?」
「はあ?」
「可愛い女の子がこの部屋で写真に写ってるけど?」
波多野の追及に返す言葉を無くした御田は、口元を引き攣らせてスマートフォンを操作した。浮気の証拠写真とも言えるその画像を見て、御田は「あいつ…」と恨めしげに呟いた。
「あんただって、俺のこと好きでもないのに好きみたいなこと言ってたじゃねえか」
御田はスマートフォンをポケットに突っ込んで言った。
波多野は御田の余裕のない口調を聞いて笑った。恐怖に歪んだものではなく、御田に見せ付けるように自尊心を剥き出しにした大人の笑い方をした。
「私、好きだからなんて子どもっぽい理由で付き合ったことないから」
「はあ?」
「ごめんなさい。そんな安っぽい言葉でも、言って上げればよかったね?」
御田は床の箱ティッシュを蹴り飛ばした。派手な音を立てて壁まであっという間に辿り着いて、落ちた。
がこん、と鳴った。
波多野は一瞬怯んだけれど、益々自分が優位に立っていることも分かったから顔に貼付けた微笑は崩さなかった。
「あんたなんか願い下げだ!」
御田は怒鳴った。
波多野は笑った。
「私もだよ」
波多野は後ろを振り返らないで一直線に部屋を出た。ドアが閉まると、部屋の内と外とを遮断する金属音が薄暗い廊下に厳粛に響いた。
またやってしまった。
強がって、罵倒して、醜悪な自分を曝け出して、最後に酷く後悔する。
波多野は笑った。
力無い笑い声は乾いた廊下に反響した。
曰く、“空き樽は音が高い”。