「テンマ博士って知ってますか?」
子どもは目をキラキラさせて尋ねてきた。何か楽しい発見をした、正に子どものような表情で。
後ろにはクロス様がいるけれど、彼は口出ししないらしい。
「テンマ、博士?」
「はい。アンドロイドを造った」
「ああ、知ってますよ。あのアンドロイドの」
「はい」
「……え、と?」
「ここへ来ませんでした?」
「いいえ。まさか」
「本当に?」
「……あ。あの、電話が、何度か」
「電話?」
「テンマって名乗ってましたけど、そのテンマ博士かどうかは」
キラキラしていた瞳はギラついていて取り調べでもされている気分だ。口調も強くなっている。
「……」
『せっかちな人だなあ』
テンマさんから電話がくると、あの人と話せるからドキドキした。
取り次ぐ時に見せてくれたものは僕には理解できなかった。学校にちゃんと通っていないから科学とか数学とかいうものはよく分からない。
あの人の夢中だったもの。
もっと仲良くなれたらよかったけど彼が心も身体も休めるための役割ができるなら馬鹿な僕にはそれも十分過ぎた。豪快な笑い方と八重歯が親しみ深く見せてくれたし言葉が少なくてもあの人の纏う空気は気さくだった。物足りないなんて我が儘なのだ。
「あるお客様が長期滞在されていて、その間にテンマさんからよく電話がありました」
「相手は誰?」
「クルト様です」
「ハニー・クルト!?」
大きな声の主はクロス様だった。
「いえ、クルト様としか…」
「小柄で眼鏡をかけた黒髪の男だろう」
「は、はい」
「間違いないな」
クロス様は子どもの頭を軽く撫でると思案するように目を伏せた。
知り合い、なのだろうか。
「クルト様をご存知なんですか?」
「昔ね」
会いたい、なんて。
「テンマさんに何かあったんですか?」
「いま探しているところなんです」
「…、クルト様は…?」
「あれはどっかの研究員にでもなってると思いますよ。回路の開発ができればなんでもする人間ですから」
「……」
「鍵」
「はい?」
「鍵だ。文字列が解けるかも」
「え、鍵?」
クロス様は形だけのお礼を告げるとさっさと帰ってしまった。
「先生は暗号に夢中なんです」
子どもがにっこりと笑った。
回路の開発。研究員。そんなことを言っていたかもしれない。イチかゼロ、その両方かそのどちらでもない、場合と組み合わせの単調な世界、それは僕には分からなかったけれどあの人が笑うからきっと素晴らしいものだと信じてた。
『テンマは人間という生き物に夢中らしいね』
ああ、僕もきっと、夢中なんだ。
クロス様はそのまま子どもを置いてどこかへ行ってしまった。その存在すら忘れているみたいに唐突に、一方的に退去した。姿勢のいい後ろ姿は毅然として見える。
それは気品と呼ぶのかもしれない。
或は泰然とも。
全体的に線が細くて物静かでクロス様そのものの印象はとても薄い。けれど彼は彼だけのルールで生きてきたような安定感がある。クロス様はそれがどんな内容であれきっと絶対にぶれない真理を知っている。
僕は一度でも、そうであったか。
「もう少しお話ししてもいいですか?」
話しかけられて振り返ると子どもがいた。
置いて行かれたのではなく自分の意思で居残っているとでも言うような様子だったから僕はたじろいだ。
「あ、はい」
その子どもはその時だけ妙に人間離れした、少なくとも子どもらしからぬ不敵さがあった。獲物を檻に閉じ込めて眺めるような余裕と無感情な圧迫に言い知れない居心地の悪さを感じる。
何が聞きたいのだろうか。
「お名前聞いていいですか」
「ローリーと申します」
「僕はレルムです」
「レルム…?」
「嫌な名前じゃないんですよ。僕は好きです」
「……」
彼は柔らかく笑った。
「クルトさんって、どんな人だったんですか?」
「…さっき言ってた通りの、小柄で、黒髪の、そういう人です」
小柄で、黒髪の、快闊で明るい、不思議な人。無口だけどよく笑う人。遠慮のない優しい言葉を知っている人。
僕の答えには余り興味がないのか反応もそこそこに彼はまた質問を続けた。熟練の刑事を思わせる何かを誘うような聞き出し方は少しも子どもらしくない。
そして笑う。
「長期滞在だとやっぱり親しくなりますか」
「うん、まあ」
「さっき話しに出た時、気にしてる風だったから」
「……」
「仲良かったんですよね、きっと」
子どもはまた笑う。
「……、でも、お客様ですから」
たぶん僕も笑った。
クルト様はお客様で、確かに多少の時間が僕とあの人の距離を縮めたこともあったかもしれないけれど、忘れることのできない圧倒的な隔たりもあった。
「クルトさんもそう思ってたかな」
「え?」
「大切な人の気持ちなら踏み躙ったらいけない」
「……」
僕にはその言葉が理解できなかった。
クルト様が何を考えていたのかなんて、馬鹿な僕には分かりっこない。
「取り壊すのって、なんでですか?」
「それは、ここは古いですし、客足も減っていますし」
「クルトさんに言われたんですか?」
「え?」
「泊まっている間、人を呼ばないように、とか」
「……」
「来た人間は追い返すように、とか」
「……」
『駄目なら出ていくよ』
だんだんと僕のモーテルの経営状態が悪くなっていくのをあの人は知っていた。知って最後まで穏やかに脅迫したんだ。
最後の日に一生かけても使い切れそうにない目の眩むような大金を置いて姿を消した。
分からないよ、そんなの。
「クルトさんはあなたを苦しめるためにここへ来たんじゃないと思うんです」
「……」
「これ、見ましたか?」
「へ?」
「手紙です」
「……」
「ローリーさんはここを取り壊すつもりなんてなかったんじゃないですか」
「それ、は、」
「手紙、読んでくださいね」
あの人は笑っていた。無口だけど、もしくは無口だから話しかけられるとドキドキした。
足音に気付いて知らずに下げていた顔を上げると子どもが去っていったようだった。僕の手には手紙。古くて埃っぽい、手紙。
『いつでも追い出していいんだよ』
追い出すなんて、できなかった。
あの人が脅迫したから?
穏やかに、強く。
深く、静かに。
「てがみ。てがみ、これ、僕に?」
封を開けると焦げ臭くて鉄臭いあの人の気配がした。タイピングしたような整然とした文字は筆圧が高くて丁寧だった。
僕は泣いた。