グリーンのことはすっかり忘れていた。
隣の芝は青く見えると言うけれどグリーンは正にそれだった。何故かグリーンに慕われて恋人同士に成ることが素晴らしく思えたのだ。あの気の抜けた顔と諂った笑い方。僕はそれを手に入れて満足した。目的が達成されればそれで満足だった。
いつもどうにかして泣かせたいと思っていた、それが、今はとても恋しい。
どうして忘れていられたのだろう。
あの青々とした欲望を。
「機嫌が悪いね」
頬杖をついてカントが言った。
「大切なものを奪われてね。確かにいい気分とは言えない」
相手は誰か、その考えがずっと頭の中を巡っている。
相手は男だ、その確信がある。
「それはもしかして女の話しかな。君が嫉妬かい?」
カントは参考書を流し読みしながら言った。普段は言葉も少なく色恋にも疎い男がそんなことを言うとは思っていなかったので僕は驚いて彼を見た。
「なんだ。君は嫉妬しないのか」
言ってから自分で後悔した。
カントが嫉妬を?
その答えは聞くまでもなく言うまでもなく想像するに難くなく推して知るべき当然の当たり前の分かり切ったことだった。
カントが入学した時にとても話題になったらしい。
『今年の首席は“ホンモノ”だ』
僕もカントという人間を知って、“ホンモノ”を知った。頭が良いから人の望む答えを全て理解してしまえる。その代わり彼は人の望みを受け入れない。カントと会ってから本当に頭の良い人間を初めて知った。
カントが嫉妬を?
カントは答えなかったがその答えは余りに明白だった。
嫉妬とは劣等感だ。
僕はグリーンの新しい恋人より劣ったから嫉妬した。グリーンを取られて奪われて失ったからグリーンを手に入れて仕留めて独占できた人間に嫉妬した。敗北感が劣等感となって嫉妬を生んだ。
カントは負けない。
カントは失わない。
カントが嫉妬を?
「分かった。この話しは終わりにしよう」
僕のお座なりの提案にカントは抑揚なく「そうだな」と答えた。
カントが、頭の良いカントが、気付いていない筈がない。僕がどれだけ平静を装っても心の底では目の前のカントに嫉妬していることに彼は恐らく気付いているだろう。嫉妬してカントを遠くから眺めているだけの人間と僕とでは然程の違いがない。表面を繕ったって根元を掘り下げれば同じだ。
「よお」
僕達に声を掛けたのは同級生のベンだった。
「見掛けないと思ったら、こんなところに居たのか」
ベンは呆れた様に言った。
「漸く休講の連絡かい?」
カントが尋ねるとベンは大袈裟に目を見開いた。
「本当に知らないのか。呆れた二人だな。アンドリュー・ロック博士が昨年に発表した論文があっただろう。それに欠陥があるのを指摘した手紙がロック博士の研究室に送られてきたそうだ」
「それで何故うちの授業が幾つも休講するんだよ」
実は休講になっているのは今の時間の講義だけではない。この前の講義でも結局教授が現れずに事実上の休講に成った。しかもいつもは事務員や助手が講義室まで休講の連絡に来るのが通例なのに、時間を過ぎてもまだその連絡はない。
「手紙を書いたやつが、うちの学生だったからさ」
ベンは不敵に笑った。それが丸で自らの業績かのように不遜に笑った。
僕は思わずカントを見た。
ベンの言う『ロック博士の論文』が現在の基礎物理学の世界で最も熱い議論の一つと成っていることは畑違いの僕達だって知っている。それがとんでもなく高度で難解な技術によって成り立つこともまた知っている。
『学生』が指摘を?
それは、そんなことが起こり得るとすればその人物はカントにおいて他にないとその時の僕は本気で信じた。だから僕はカントを見た。それは僕の無意識の行動だった。
「誰が?」
しかし僕はベンの口振りからその超級の学生がカントではないことを直ぐに悟った。
ベンは僕の問いに答えなかった。
「ジョンだろう?」
勿体振ったベンに代わって口火を切ったのはカントがだった。
「え?」
僕はそれをそのまま信じなかったし信じたくてもできなかった。ベンが詰まらなそうに「なんだ知っていたのか」と言ってもなお信じられなかった。
だいたい僕にはその『ジョン』が誰かも分からない。
「ロック博士の論文に欠陥があることを証明した。間違いがないか検算して欲しいと頼まれたんだよ」
カントは流石に参考書から目を離していた。
「検算を。流石だな」
ベンは素直に驚いていた。
「それで休講になる理由が僕にはまだ分からないよ」
「ああ、それか」
僕がそう言うとベンは思い出したかのように言った。
「ジョンが自分が書いた手紙の内容について講義したんだ。大勢の生徒の前で、堂々と。ロック博士を擁護する生徒と口論にまでなって、理学部棟の方は大騒ぎだ。工学部棟がこんなに静かなことには驚きだな」
「ジョンは基礎物理には興味がないのに、講義を?」
カントが胡乱げに尋ねた。
「それも大問題の種だ」
ベンは楽しそうに答える。
「あいつは数学にしか興味がない数学オタクだろう。だから論文の意味や全体のことには触れずに、ロック博士の支持者を相手にもしなかった。態度もまあまあ悪かったな、あれは」
ベンがにやりと笑って、僕は漸くその『ジョン』が誰なのか当たりを付けた。
数学科のジョン・ポーターはベンの言う通り数学にしか興味がない数学オタクだ。だいたいいつも工学部生を鼻で笑っていて理学部の中でも数学科が最も優れた“真理”を持っていると呟きながら一人で昼食をとるような学生だったと思う。
僕達は教養学部生なので学科の変更は比較的簡単にできるのだけれどジョンにはそんなことは関係なかった。
数学至上主義。
あの鼻持ちならない話し方が聞こえるようだ。
「それで、内容は?」
僕はカントを見た。
「4楽章ある交響曲に対して、この小節には4分音符が一つ足りない、と言っているような感じだろうね」
分かり易い。
ベンもカントの言葉に「成る程」と呟いた。
「感心するよ。カントは本当に頭が良いな」
僕はそれからのベンとカントの会話を漫然と聞いた。
ベンの声には偽りがない。正直でそのまま彼の本心を表している。カントの優秀な頭脳に対して何ら卑屈になるところがない。
馬鹿だからか?
いいや、ベンは賢い。
ベンはカントに敵わないことを理解している。理解した上でそれを認めているのだ。僕にはそれはとてもできない。
負けたくない。
一番でありたい。
カントがどれ程優れていてもそれをあっさり認めて降参するのは嫌だし僕の自尊心が許さない。
ああ、だから僕は嫉妬する。
僕を見て欲しい。
僕を褒めて欲しい。
グリーンにとっての一番でありたい。
『二番目でもいい』
確かに僕はそう言った。
僕はグリーンと恋人気分を味わえたらそれでいいと思っていたけれど大きな間違いだ。二番目なんてとんでもない。一番でなければ嫌だ。
僕だけを好きでいて欲しかった。
僕は嫉妬した。
カントが嫉妬しないのは一番に成る為の情熱を持たないからだ。生まれつき優れていたからだ。
僕は違う。
僕の心は嫉妬に焼け爛れていた。自尊心の炎に煽られた心が僕の現在を炙り出す。
でもそうでなければカントに勝てない。
生まれついて頂点に居る者を越えられない。
より勢いを増して燃え盛り始めた自尊心の灼熱は決して醜くはない。共闘する戦友だ。
「何笑ってんだよ」
ベンが僕を見て言った。
「ジョンはなかなかやるなあ、と思ったんだ」
「なんだ。キースはジョンの味方か」
「気持ちが分かるんだよ。追う者の辛さが」
ベンは曖昧に頷いた。
僕はそれに笑顔で答えた。
【嫉妬と闘志の炎】